あまり考えないようにしているのですが、どうしても今回の通り魔事件のことが浮かんできてしまいます。
こうした事件は何回もありましたが、今回はその被害の中心が子どもだったことが引っかかるのです。2001年の大阪・附属池田小の事件以来でしょうか。
あのときも学校という安全なはずの領域で起きた衝撃的な事件でしたが、今回はさらにバス待ちの路上という、もう対策の施しようのない場所で起きたことがまた無力感を抱かせます。
それに加えて、犯人と思われる人物がその場で自殺してしまっていることも、なんとも言えずやり切れない気分にさせます。
そこにどんな心の闇があったのか、もはや知ることができません。
これは一種の自爆テロですが、あったはずの背景さえもはっきりしないままになってしまうのでしょうか。
天災でもないのに、大切な命が奪われた原因さえ問うことも出来ず、何をどう考えればいいのか分からない。ニュースで知っただけの自分でさえこうなのですから、まして当事者の方は…
母親にとって、歴史事実とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味すると言えましょう。死んだ子供については、母親は肝に銘じて知るところがある筈ですが、子供の死という実証的な事実を、肝に銘じて知るわけにはいかないからです。そういう考えを更に一歩進めて言うなら、母親の愛情が、何も彼もの元なのだ、死んだ子供を、今もなお愛しているからこそ、子供が死んだという事実が在るのだ、と言えましょう。愛しているからこそ、死んだという事実が、退引きならぬ確実なものとなるのであって、死んだ原因を、精しく数え上げたところで、動かし難い子供の面影が、心中に蘇るわけではない。(小林秀雄「歴史と文学」)
「死」という客観的事実でなく、亡くなってしまった子ども、家族というかけがえのない存在があるんです。私たちにできることは、起きてしまった悲しい事実を、メディアやネットで勝手に解釈し、ことさらに発露することではないでしょう。
また、今の段階でこれを社会問題として語り、やたらに一般化することでもないと思います。
「愛の反対は無関心」と言われますが、今騒ぎ立てているメディアも、数日後には何事もなかったようになるのではないでしょうか。
今は騒ぎ立てず、そっと心に留めておく。
けれど忘れない。
それしかできません。
あえて、本当に敢えてですが、これをきっかけに被害を受けた方に寄り添った報道や発言が広まってほしいと思います。
有名な方が亡くなった時、アナウンサーが「心よりお悔やみ申し上げます」などと言うことがありますよね。言葉があればいいというわけではありませんが、そういうことかな、とも思います。
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