梶井基次郎「檸檬」を読む

日々のこと

目次

「不吉な塊」とは

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。

梶井基次郎「檸檬」(青空文庫より)

「私」は荒んだ生活のなか、借金を背負い、肺尖カタルや神経衰弱になってしまいます。

しかしそのようなわかりやすい問題ではなく、彼の心を重く押さえつけているのは「不吉な塊」です。

正体は分からない、どう対処していいかも分からない、だから焦り、それが自分が引き起こしたものと考えれば自己嫌悪に陥るしかない。

とにかくどうあがいても良くなる方向に向かうとは思えない、心の奥に凝り固まって消えない不安な感情。

このような何とも言えない、嫌な気分になることは誰も一度は経験があるのではないでしょうか。「檸檬」は、この心理状態を中心に、過去と現在を行き来しつつ語られていきます。

「結果した」について

ところで、「結果した」とは、結果としてそう(肺尖カタルや神経衰弱)なったということだと思いますが、その原因が何なのかがはっきりわからない文章になっています。文脈上、考えられるのは「不吉な塊」か、「酒を毎日飲む(ような荒んだ)生活」のどちらかですが…

しかしそれを特定することにそれほど意味があるとも思えません。「私」が苦しんでいるのは病気や借金ではない、と明言しているのですから。

ただし、それは「不吉な塊」を強調するためであって、それらがまったく関係ないというわけではないでしょう。この言葉があることによって「私」の現在の生活・精神状態が浮かび上がってきます。

自分の肉体、精神の荒廃、社会生活を正常に営めないという劣等感、孤独…それらすべてが「えたいの知れない」何かになっているのです。

「果物屋」と「檸檬」についての描写

以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。

生活がまだ蝕まれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。煙管、小刀、石鹸、煙草。私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。(中略)しかしここももうその頃の私にとっては重くるしい場所に過ぎなかった。書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった。

梶井基次郎「檸檬」(青空文庫より)

こうなってしまう前の「私」は、美しい音楽や、丸善に並んでいる洒落た小物に心を動かされていました。

けれど「不吉な塊」にとらわれた「私」にとって、美しい音楽さえ耳に入らず、好きだった丸善も重苦しい場所にすぎません。

丸善という高価な品を売る場所は、借金に苦しむ私には場違いで、追い立てられるように感じられるのです。

ただし、ひとつだけ例外があります。それが次に挙げる「果物屋」です。

ここでちょっとその果物屋を紹介したいのだが、その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。

梶井基次郎「檸檬」(青空文庫より)

古びた黒い漆塗りの台に並べられた人参葉、水に漬けてある豆、慈姑(くわい)…立派な店ではないことが逆に「私」の心にそぐい、ただの果物屋として「立派に」そこに存在しているという確かさに惹かれます。

もう一つはその家の打ち出した廂なのだが、その廂が眼深に冠った帽子の廂のように――これは形容というよりも、「おや、あそこの店は帽子の廂をやけに下げているぞ」と思わせるほどなので、廂の上はこれも真暗なのだ。そう周囲が真暗なため、店頭に点けられた幾つもの電燈が驟雨のように浴びせかける絢爛は、周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。

梶井基次郎「檸檬」(青空文庫より)

このあたり、比喩のオンパレードなのですが、そのひとつひとつを説明するのがばからしくなるくらい美しい表現です。

この「私」が気に入っていた果物屋で、その店ではあまり見かけなかった「檸檬」に出会います。

その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬が出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのも見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の恰好も。――結局私はそれを一つだけ買うことにした。

梶井基次郎「檸檬」(青空文庫より)

金はないけれども、ほんの少しの贅沢が必要。「私」はたった一個、その「檸檬」を買ってみました。

すると、不思議なことが起こります。

それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。

梶井基次郎「檸檬」(青空文庫より)

あれほど「私」の心押さえつけていた「不吉な塊」がゆるみ、幸福な気分になれた。なぜそのようなことが起こったのか、それを「私」は考えます。

その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は肺尖を悪くしていていつも身体に熱が出た。事実友達の誰彼に私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱い故だったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。

私は何度も何度もその果実を鼻に持っていっては嗅いでみた。それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻を撲つ」という言葉が断れぎれに浮かんで来る。そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には温い血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった。……

実際あんな単純な冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて私は不思議に思える――それがあの頃のことなんだから。

梶井基次郎「檸檬」(青空文庫より)

「檸檬」の冷覚や触覚や嗅覚や視覚が、「不吉な塊」に苦しむ私を救う存在となり、その重さにすべての善・美を感じます。

――つまりはこの重さなんだな。――

その重さこそ常づね尋ねあぐんでいたもので、疑いもなくこの重さはすべての善いものすべての美しいものを重量に換算して来た重さであるとか、思いあがった諧謔心からそんな馬鹿げたことを考えてみたり――なにがさて私は幸福だったのだ。

梶井基次郎「檸檬」(青空文庫より)

「単純な色彩を持ち掌にちょうど包み込まれる檸檬を手にした時、小さいけれどそこに確かにある物の実在感を重さを通してつかむことで、不安に苛まれいたたまれず浮浪していたような『私』が心の安定を得られた。」

説明しようとすると身もふたもない言い方になってしまいますが、そういうことでしょうか。

さて、幸福になった「私」は、以前好んでいた丸善に行ってみますが…

しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。香水の壜にも煙管にも私の心はのしかかってはゆかなかった。憂鬱が立て罩めて来る、私は歩き廻った疲労が出て来たのだと思った。私は画本の棚の前へ行ってみた。画集の重たいのを取り出すのさえ常に増して力が要るな! と思った。しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて来ない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る。それも同じことだ。それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。それ以上は堪まらなくなってそこへ置いてしまう。以前の位置へ戻すことさえできない。私は幾度もそれを繰り返した。とうとうおしまいには日頃から大好きだったアングルの橙色の重い本までなおいっそうの堪えがたさのために置いてしまった。――なんという呪われたことだ。手の筋肉に疲労が残っている。私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群を眺めていた。

梶井基次郎「檸檬」(青空文庫より)

せっかく得た幸福は、気詰まりな丸善の中に入ってから憂鬱に変わってしまいました。この変わりやすさも、心の不可思議な働きですね。

そこで「私」は袂の中の檸檬を思い出します。そしてそれで「試してみる」のです。

「あ、そうだそうだ」その時私は袂の中の檸檬を憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」

 私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌ただしく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。

 やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬を据えつけた。そしてそれは上出来だった。

 見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。

 不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。

 ――それをそのままにしておいて私は、なに喰わぬ顔をして外へ出る。――

 私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。

梶井基次郎「檸檬」(青空文庫より)

「檸檬」を爆弾に見立てるという想像によって、現実には壊すことの出来ない、西洋文化の象徴ともいえる丸善をこっぱみじんにしてやろうと。

そして「私」を取り囲む不安や憂鬱を一気に乗り越えようと。

物語はこのあとの1行で終わります。「そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った。」

もちろん檸檬が、丸善が爆発するわけではありません。ただ想像の中で起こるその出来事を、「私」はくすぐったい気持ちで思い浮かべ、おそらく再び幸福な気分を取り戻すのです。

想像力が現実を超克する物語

 「檸檬」は結局なにが起こったかと言えば、何も起こらない小説です。すべて「私」の心情、想像が語られるだけです。

もちろん丸善の店員は画集の城と檸檬を見て、迷惑な客の仕業と思ったでしょうが、その意図を知るはずもありません。ただそれだけです。

それだけの話なのに、読むと惹きつけられる何かがあります。

それはおそらく、「私」の「不吉な塊」に共感する自分と、この檸檬爆弾に爽快感を感じている自分がいるからでしょう。

現実は変わらない。不安、焦燥、嫌悪、憂鬱、みんな持っている普通の感情です。

しかし「檸檬」というありふれた存在ひとつ、そのように想像することで幸福になれる、と言ってくれている。そのことが現実を超える勇気をくれるのでしょう。

「想像」=イマジネーションの力。それを信じさせてくれる物語だと思います。

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