不安をつくり出すもの

川﨑の悲しい事件から1週間、テレビやネットでの報道はまだ続いていますが、同時に報道のあり方に対する意見もよく見かけます。

特に被害を受けたご家族などへの、配慮のない取材に対する批判が挙がっています。報道の自由、義務、緊急性、抑止力など、重要な要素はあるでしょう。難しい問題ですが、報道による二次被害を受けることだけはあってはならないと思います。

そんな中、元農林水産事務次官が長男を殺害するという事件が起きました。川﨑の事件を受けて、「長男も人に危害を加えるかもしれないと不安に思った」という趣旨の供述をしているようです。

実際のところは分かりませんが、もし、「第三者に危害が及ぶくらいなら、自分の息子であっても」という心理から起こした事件だとすれば、あまりに酷い話です。

「不安」は誰の心にも忍び寄ります。未来は誰にも分からないはずなのに、まるでそれが起こるのが「必然」であるかのように思ってしまう・・・

そういう状況の時、「不安を希望に」などと言っても意味はないでしょう。けれど、なにもできない、ということではないと思います。

「不安」が心の状態であるとすれば、それを頭で考えて解消するのは難しい。そうではなくて、何かアクションを起こして、一歩でも1ミリでも前に進んだという感覚を持つことが必要なのではないでしょうか。

少なくとも、自分の中に凝り固まっている「不安」を外に出すことができれば。

それは自分の弱いところや恥をさらけ出すことでもあります。抵抗は誰にもあるし、今回の次官のように社会的な立場がある人にとってはなおさら強いでしょう。

また、「不安」を語ることによって家族や大事な人に迷惑をかけることになるのではないか、という「不安の不安」も生じるでしょう。打ち明けたからといって、不安のもとである状況が変わるとも限りません。

しかしそれでも、一人でずっと抱えている重い荷物から、一時かもしれませんが解放されるはずです。

「心が軽くなる」というのは比喩ではありませんよね。そういう経験を、誰もが一度はどこかでしていると思うのです。

話せる相手がいることが大前提、ではなく、「心を打ち明ける」ことにチャレンジしようとする姿勢、から始まるのだと思います。

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