Being(あり方)が問われる~新型コロナウイルスの日々~

ココロ

「なんとか持ちこたえている」?

2月27日、安倍首相が小中高校の休校を要請してから19日経ちました。

その間、都道府県や市町村の教育委員会によって若干の違いはあるものの、おおむね全国の小中高校が休校を続けています。

「生徒のいない学校」は寂しいです。普段なら、たとえ休みの日でも部活や課外などで必ずいるはずの制服姿がありません。教室も廊下も静かすぎます。

それまでどんなに忙しかったとしても、こうなってみると日常の大切さが分かりますね。

いろいろ原因はあるのでしょうが、イタリアやアメリカでの感染者の急激な増加を見ると、現状の日本はそこまでいっていないようにも思えます。

「なんとか持ちこたえている」という説明は非常にわかりにくいですが、急激に増えているとも言えず、さりとて減少しているとも言えず、そうとしか表現できないのでしょう。

感染した方々の多くはクラスター感染ですし、大きなイベント等が中止になり、休校をきっかけに人の動きが縮小されたことで、それなりの効果が出ているのではないかと思います。

そうなると、これからですね。

見えないストレスとの戦い

この2週間ほど、休校の要請が突然だったこともあり、いろいろな混乱がありました。

学校だけでなく、保護者も子どもたちも、社会全体もその対応に追われ、中には廃業を余儀なくされたところもあるようです。株価の暴落も当然で、経済的な打撃は計り知れません。

そして休校やイベントの自粛が「要請」だったがために、個人も企業も自治体も対応がまちまちになりました。

要請の時点で強制力はありませんが、どうやらそれがある意味「社会の分断」を生んでしまったような気もします。

これ以上感染を広げないために、中国のようなもっと強固な制約を国が率先してかけるべき、と言う人もいれば、感染の状況に応じてそれぞれの判断でいい、と言う人も出てきました。

そうするとライブを開催したり、旅行に行ったりする、いわゆる「不要不急」と一般的に思われることに対して、それぞれの価値観、フィルターがかかります。

「こんな時に人が集まったり、出掛けたりするのはエゴでしょ?」「自分は感染してもいいと思ってるんだろうけど、そしたら人に移すことになるんだよ。」「みんなで一緒にやらなきゃ意味がないよね?」「特に重症化する年寄りが動き回ってどうするの?」

という一律行動を主張する派。

「感染状況が違うのに、すべて同じように行動する必要はないんじゃないの?」「急に言われて、効果があるかどうか、いつまでやるか分からない。無理だよ。」「全部自粛したら、経済は最悪だよね。コロナじゃなくてそれで亡くなる人も出る」「コロナってそんなに危険なの? みんなが同一行動を取れ、って強制したり批判するのはどうかと思う」

という現実・懐疑派。

まさに、この「正解のない問い」に向き合わなければならなくなっています。

私自身、ほんの数日前は前者の強硬派に近い考えでした。効果があるかどうかは分からないけれど、とにかくこの事態が広がらないよう、他のものは多少犠牲にしてもみんなが協力する必要があるのではないかと。それが最優先ではないかと。

でもそう思ってしまうと、反対の考えをなかなか受け入れられないんですよね。

自分も自粛してるのだから、他人もそうするのが当然だ、みたいな。

こうなると、社会全体がギスギスしてきます。意に沿わない行動をする人に対して批判、攻撃をするようになる。

同調圧力が強くなり、コロナに感染することより、そうやって批判されることを恐れて行動を制限するから、ストレスも溜まります。

「自粛」なのか「自重」なのか

感染の広がるスピードがとどまっている?今(だからそう思うのかもしれませんが)は、もう少し冷静に考えなければいけないな、という風に思っています。

急に「自粛」が始まったその混乱期からまもなく3週間、定期的に首相からの発言もなされるようになり、少しづつ落ち着きを取り戻しつつある、というのが実感です。

もちろんなんでもOKということではなく、冷静に考える必要があります。ただ他者からの評価基準で「自粛」するのではない、その結果「自重」することなんだと思います。

言い方はまずいかもしれませんが、新型コロナウイルスは、改めて社会のあり方、私たちのBeing、こころのあり方を考えさせるきっかけにはなりました。 

今こそ見直す

感染の拡大とともに株価の暴落は止まらず、その他さまざまなところに影響が出始め、「戦時中」という言葉が飛び出すほどの状況になってきました。

ほんの数週間前までの日常が嘘のようです。

もちろんその中で、こういう時だからこそ今までの「当たり前」を見直し、できることを探してやっていこう、という機運が生まれてきたことも確か。

物事はすべからく両面、裏と表がありますね。

人は失って初めて、今まで当たり前に存在していたもののありがたみに気づく、と言います。

それはそうなのだけれど、今回のように今まで経験したことのないような事態、しかも一部の地域や国だけでなく全世界が同じ恐怖に直面しているという事態に対して、過去の「当たり前」は通用しないですよね。

むしろこうした状況でも耐えられる新しい社会、生き方を考え、実行していく。新型コロナウイルスの感染が終息したとしても、それを続けていく、それこそがサスティナブル、持続可能と言えるのではないでしょうか。

必要なのは「レジリエンス」

ところで今年のセンター試験の第1問は、河野哲也氏「境界の現象学」からの出題でした。

そのなかに「サステナビリティ」と最近のキーワード、「レジリエンス」が出てきます。

「レジリエンス」とは「攪乱を吸収し、基本的な機能と構造を保持し続けるシステムの能力」と説明されていますが、さらに、「環境の変化に対して動的に応じていく適応能力」という概念で使われるようになったということです。

つまり、もとの状態に戻る、というよりは、「絶えず変化する環境に合わせて流動的に自らの姿を変更しつつ、それでも目的を達成するのがレジリエンス」だと。

これを新型コロナウイルスに冒された今の状況に重ねてみれば、まさに問われているのはこの「レジリエンス」と言えないでしょうか。

「もとに戻る」ことを目標とするのではなく、こうした変化に柔軟に対応し、自らの生活スタイルを見直し、変えていく。それが新しい「当たり前」になるようにする。

たとえば企業のリモートワークが代表格でしょうか。どこにいても、離れていても仕事ができる状態に普段から慣れておく。

とすれば学校も、「リモートスタディ」を日常化させておく、ということも考えられます。

リアルな「学校」に毎日決まった時間に登校して学習する、ということだけが学び方ではないでしょう。

むしろ、生徒の自由度が増す分、自らの学びを推進することにもなります。

今までの「学校」のイメージを一度払拭してみる。今以上に積極的な学びのスタイルを模索して実行してみる。今回のような非常時にも対応できるようにしておく。

「当たり前(だった)」の日常を疑い、再発見しようとする心。それが「レジリエンス」ということに繋がるのだと思います。

(余談ですが、以下の記事↓がすごく参考になりました。感染を防ぐために有効なのは、中途半端な「隔離」よりもとにかく「人の移動」を減らすことが有効だということがわかりやすく理解できます。)

https://www.washingtonpost.com/graphics/2020/world/corona-simulator/

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