不安を見つめる

ココロ

「不安は希望」とか言っていても、どうしても不安になってしまうときはあります。

希望と不安の根っこが一緒なら、それも無理からぬことですよね。

今、特に何かがあるわけでなく、漠然と感じてしまう不安なら、少し経てば忘れたり何とかコントロールすることもできるでしょう。

問題は、現在が満ち足りていない、または欠落感や喪失感があることからくる不安です。今は落ち着いているけれど、いつか暴発するかもしれない、という爆弾を抱えている場合もあるでしょう。

その場合は、あえて不安の内容や原因を、一度じっくり見つめてみることも必要かもしれませんね。(それもできない状態、不安が昂じて医学的に「全般性不安障害」という病気に該当するような場合は専門家の力が必要だと思います。)

最近失ったものがあるとします。または今の自分に足りないもの、求めているもの、を考えてみます。

それは「モノ」であったり、「コト」であったり、「ヒト」であったり。

失って、もう取り戻せないと思ったとき。欲しいけど、どうあがいても得られそうもないとき、それはこれから先もずっと続くのだ、という不安になっていきます。

私の場合であれば、「伴侶の死」はまさにそれでした。生前、良きにつけ悪しきにつけ、いろいろあったとはいえ、「死」という絶対的なものに直面したとき、すべては「無」になりました。

どんなに幸福でも、どれほど後悔しても、もう戻らないという不可逆性への不安。

そしてこれからどうなるのか、この孤独と向き合っていけるのか、という不安。

「死」でなくとも、自分や家族が重病になったとき、失恋したとき、職を失ったとき・・・ たとえばそんなときの不安。

そのなかでも特に、「孤独」というものへの不安はずっとつきまといます。

周囲に自分を見守ってくれる人はいるとしても、それでは満たされない精神上の孤独、自分はこれから先もずっと独りなのだろうか、という不安です。

(「引きこもり」が問題になったりしてますが、その状態が問題なのではなく、そこにある「孤独」を社会や家族や当事者も放置?していることに問題があるのではないでしょうか。)

でも、そんなときにできることは、意外と簡単だったりすると、今では思えます。

自分の不安を隠さない、誤魔化さないでアウトプットすること。

話せる人がいたら、恥を忍んで自分の寂しさをそのまま打ち明けてみるんです。

そしたら自分の孤独、不安を一度自分から切り離すことができます。そしてその孤独や不安は客観視されて、やがて「親友」として近しいものに感じられるようになります。

「親友」は自分にとって必要なものと思えれば、そこからは違った視点で歩き始められる・・・そんな気がします。

「話せる人など誰もいない」のであれば、ただそれを「言葉」にするだけでもいいんです。

誰にも向けない「手紙」に書いてみる。ネットで投稿してみる(危険性はあります)。話せそうな人を探すところから始める。不安でいっぱいの自分から逃避せずに、何かにチャレンジする。

最初の一歩への勇気さえあれば、何かが変わる。少なくともそう信じていたい、ですよね。

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