兼好は上人を非難してない!〜徒然草「丹波に出雲といふ所あり」〜

ココロ

上人の失敗?

徒然草二百三十六段、「丹波に出雲といふ所あり」です。

丹波に出雲といふ所あり。大社を移して、めでたく造れり。しだのなにがしとかやしる所なれば、秋のころ、聖海上人、そのほかも、人あまた誘ひて「いざたまへ、出雲拝みに。かいもちひ召させん。」とて、具しもていきたるに、おのおの拝みて、ゆゆしく信おこしたり。

丹波国に出雲という所がある。出雲大社に倣って立派に造営したものだ。そこはしだのなにがしとかいう人が領有する所なので、秋の頃、聖海上人は沢山の人を誘って、「さあ皆さん、行きましょう。出雲を拝みに。ぼた餅をごちそうしますよ。」と言って一緒にお参りすると、皆それぞれ拝んで、たいへん信仰深くなった。

この話の主人公は「聖海上人」という人物です。

「上人(しょうにん)」とは、高徳の僧の敬称です。「しだのなにがし」という地主?が上人やその他大勢の人を誘って、丹波の出雲神社へ参拝に行きました。

ここは十月に日本国中の神様が集まるという有名な出雲大社の名を持っています。京からはるか遠い出雲大社にはそうそう行けません。

しかし同じ出雲という名を持っているのだから、「本社と同様、霊験あらたかな場所に違いない」と上人は考えていたでしょう。

同行した人々は、そこまで信心深いわけでもなかったでしょう。もしかしたらぼた餅をご馳走すると言われたから付いて行った、だけなのかもしれません。

実際に参拝すると、「ついに来た!」というテンションの高さとそのネームバリューに押されて、上人はもとより、参拝者全員が強い信心を起こします。

「ゆゆしく」は「並外れた、ひどく」などと訳し、程度のはなはだしさを表します。出雲という名前には、それだけの重みがあったのでしょうね。

御前なる獅子・狛犬、背きて、後ろさまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやう、いとめづらし。 深き故あらん。」と涙ぐみて、「いかに殿ばら、殊勝のことは御覧じとがめずや。むげなり。」と言へば、おのおの怪しみて、「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん。」 など言ふに、

本殿の前にある獅子・狛犬が反対を向いて、後ろ向きに立っていたので、上人はひどく感じ入り、「ああ素晴らしい。この獅子・狛犬の立ちようは、大変不思議だ。きっと深い意味でもあるのだろう。」と涙ぐんで、「どうです皆さん、他に類を見ない素晴らしいものとはご覧にならないのですか。それが分からないとはなんと仕方のない人達ですな。」と言ったので、皆、珍しいものだと思って、「本当に他と違って素晴らしいなぁ。都の土産話にでも語りましょう。」などと言ううちに、

どこの神社でも、獅子と狛犬はお互い向かい合うように設置されています。ところがここはなぜかそれぞれ180度反対を向いていました。

「出雲」なのだから、これは絶対になにか理由がある。それも相当深い理由が…

そう思い込んだ上人はすでに涙ぐんで、連れてきた人々にもその感動を共有(強制)しようとします。

「あなたたちにはこの獅子や狛犬の、他との違いが分からないのか!この出雲神社ならではの素晴らしさが。」

そう言われれば、もともと主体性のない人たちですから、「おー確かに」「これは素晴らしい」「都の土産話にしましょう!」と上人に賛同します。

ここで終わっていればこの一行も幸せな帰路につけたでしょう。ところが、上人はさらにその理由を知ろうとしたのです。

上人なほゆかしがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられやう、定めてならひあることにはべらん。ちと承らばや。」と言はれければ、 「そのことに候ふ。さがなきわらはべどものつかまつりける、奇怪に候ふことなり。」とて、さし寄りて、据ゑ直して去にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。

上人はやはり理由を知りたがって、分別があり何でも知っていそうな顔をした神官を呼んで、「この神社の獅子や狛犬の立てられている様子は、きっと由緒あることなのでしょう。それをちょっとお伺いしたいのです。」
と言われたので、神官は、「そのことです。これはいたずら者の子どもたちがしたのですよ、まったくけしからぬことです。」と言って獅子・狛犬に寄り、向き合うように据え直して去ったので、上人の感動の涙は意味のないものになってしまったのだ。

実はこの変わった獅子や狛犬は、単なる子どもたちのいたずらでした。由緒も何もありません。

神官の話を聞いたときの、上人や連れの人々の何とも言えない困った顔が浮かんできます。あれだけ感動して、上人に至っては涙まで流したのですから、お互い気まずいなんてもんじゃないでしょうね。

本当の教訓は何か

ところで兼好は、このエピソードを通じて何を言いたかったのでしょうか。

思い込みの激しい上人を滑稽な人物として描き、皆に尊敬される高徳の僧の底の浅さを笑った、というふうに取るのが一般的かもしれません。しかし、そんな高みから兼好は批評しているのでしょうか。

私には「上人のように思い込んで発言すると恥をかく」ということがこの話の主旨ではない、と思えるのです。

もしそうだとすると、そこから導き出されるのは、「感動して人に話す前にきちんと事実を確認しなさい」という身も蓋もないものになってしまいます。(そもそも感動の瞬間に、その裏付けを考えたりしませんよね?)

上人を他人事として笑うのではなく、自分にもそのような思い込みがあるのではないか、という自分ごと化した視点が兼好にもあったのではないでしょうか。

上人には知識があるからこそ思い込んだわけですし、生半可な知識や部分的な情報にまみれた現代の私たちには、なおさらそういう危険性は高いでしょう。

そして上人ばかりが注目されますが、一緒に行った人々の付和雷同ぶりにも注目したいところです。

「出雲」という名前に幻想を抱き、絶対に素晴らしいところだ!という先入観で参拝する。しかも高徳の人があれほど感激するのだから、自分たちもそうしなければみっともない。なにせぼた餅をごちそうになっているのだから、と。

もしかしたら、彼らは獅子や狛犬の一般的な立ち方さえ知らなかった可能性もあります。上人に言われなければ何のことか分からない。

権威のある人、立場が上の人の発言を鵜呑みにせず、自分で考える必要がある、という読みもできそうです。

何も考えず、言われたとおりにしているほうが楽なのです。「これいいよねー」と言われたら「そうですね」と答える。

人間関係を荒立てないためにはこうした世間知も必要ですが、そのまま思考停止になってしまうのでは危険です。

withコロナの時代、答えのない世界に生きる私たちには、その姿勢が求められているでしょう。

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