「無常という事」(小林秀雄)を読む

日々のこと

難解な文章

6年前のセンター試験に小林秀雄の文章「鐔」が出題されて話題になりました。

この年は国語の平均が101点という、センター始まって以来最も低い点数でしたが、その一因がこの評論文だと言われます。(ちなみに翌年はさらに低い99点でしたが)

小林秀雄の文章としては読みやすい方だったと思いますが、なにしろ1962(S37)年に書かれた古い文章です。本文中の語句に21もの注がつけられ、読解に相当時間がかかったと思われます。

そのとき担当した生徒には、教科書に載っている「無常という事」を授業でやらなかったので、読んでおけばよかったなと後悔しました。まさか出るとは・・・

だからというわけではありませんが、今、最後のセンター試験を受ける3年生の授業で、この文章を取り上げています。

「鐔」よりさらに古い1942年に発表されたこの作品は、味のある美しい文章です。しかし、高校生が読むということになると、いくつかの点で問題になることがあります。

ひとつは、文章そのものが、評論と言うにはあまりにも情緒的で飛躍が多いことです。なので主題が「無常」なのか、「美」なのか、「歴史」なのか、「人間」なのか、はたまた現代批判なのか、なかなかつかみきれません。

もう一つ、読解の前提として、現代評論の中心テーマである「時間論」や「身体論」などについて一定の知識をもっている必要があると思われます。(内山節や鷲田清一といった人の評論を学習してはありますが)

さらに文中に登場する本居宣長や森鴎外についての予備知識もある程度必要。そう見ていくと、この文章を高校生が、というより教えている私たちも理解するのは並大抵のことではありません。

それでも、この難解で抽象的な文章に触れる意味はある、と思うんです。

そう思ういくつかのポイントがありますが、とてもうまくまとめられそうもないので、いくつかの箇所を引いてみます。

たとえば、

「記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。」

という表現です。そこでこういう問題を出してみます。

Q「記憶」と「思い出す」はどのように違うのか。また「思い出す」ことが重要なのはなぜか。

とりあえず本文を載せます。

「無常という事」(小林秀雄)

「ある人いはく、比叡の御社に、偽りてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つゞみを打ちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にしひ問はれて云(いはく)、生死無常(しょうじむじょう)の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候、なう後世(ごせ)をたすけ給へと申すなり。云々(うんぬん)」

これは、「一言芳談抄(いちごんほうだんしょう)」の中にある文で、読んだ時、いい文章だと心に残ったのであるが、先日、比叡山に行き、山王権現(さんのうごんげん)の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついていると、突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細勁(さいけい)な描線を辿る様に心に染み渡った。そんな経験は、初めてなので、酷く心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがし続けた。あの時、自分は何を感じ、何を考えていたのだろうか、今になってそれがしきりに気に懸かる。無論、取るに足らぬ或る幻覚が起ったに過ぎまい。そう考えて済ますのは便利ではあるが、どうもそういう便利な考えを信用する気になれないのは、どうしたものだろうか。実は、何を書くのか判然しないままに書き始めているのである。

「一言芳談抄」は、恐らく兼好の愛読書の1つだったのであるが、この文を「徒然草」の内に置いても少しも遜色はない。今はもう同じ文を目の前にして、そんな詰まらぬ事しか考えられないのである。依然として一種の名文とは思われるが、あれほど自分を動かした美しさは何処に消えてしまったのか。消えたのではなく現に眼の前にあるのかも知れぬ。それを掴むに適したこちらの心身の或る状態だけが消え去って、取り戻す術を自分は知らないのかも知れない。こんな子供らしい疑問が、既に僕を途方もない迷路に押しやる。僕は押されるままに、別段反抗はしない。そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見付け出す事が出来ないからである。だが、僕は決して美学には行き着かない。

確かに空想なぞしてはいなかった。青葉が太陽に光るのやら、石垣の苔のつき具合やらを一心に見ていたのだし、鮮やかに浮び上った文章をはっきり辿った。余計な事は何一つ考えなかったのである。どの様な自然の諸条件に、僕の精神のどの様な性質が順応したのだろうか。そんな事は分からない。分からぬばかりでなく、そういう具合な考え方が既に一片の洒落(しゃれ)に過ぎないかも知れない。僕は、ただ或る充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、その1つ1つがはっきりとわかっている様な時間が。無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。そんな気もする。

歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきり逃れるのが、以前には大変難しく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管(てくだ)めいたものを備えて、僕を襲ったから。一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられる様な脆弱なものではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。

晩年の鴎外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの膨大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。そんな事を或る日考えた。又、或る考えが突然浮び、たまたま傍にいた川端康成さんにこんなふうに喋ったのを思い出す。彼笑って答えなかったが。「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というのは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」

この一種の動物という考えは、かなり僕の気に入ったが、考えの糸は切れたままでいた。歴史には死人だけしか現れて来ない。従ってのっ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物であることから救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に留まるのは、頭を一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。

上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴の様に延びた時間という蒼褪めた思想(僕にはそれが現代における最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。成功の期はあるのだ。この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かの生女房ほどにも、無常ということが分かっていない。常なるものを見失ったからである。

青空文庫

「記憶」と「思い出」

歴史には死人だけしか現れて来ない。従って、のっ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物であることから救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に留まるのは、頭を一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。

無常という事

Q「記憶」と「思い出す」はどのように違うのか。また「思い出す」ことが重要なのはなぜか。

という問題について考えたいと思います。

辞書によれば、

記憶=過去に経験した事柄を忘れずにおぼえていること。また、その内容。(明鏡国語辞典)

思い出=過去の体験や出来事を心に思い浮かべること。また、その内容。(同上)

思い出す=前にあったことや忘れていたことが心によみがえる。記憶が呼び覚まされる。(同上)

などとあります。

辞書によって多少説明は違うし、これはこれで問題の解答に「触れ」てはいますが、「無常という事」で小林秀雄が書いていたことにはなりません。

そして大事なのは、生徒がこの問題に対してどのように考え、答えを出してくるかです。彼らの経験やそれまで培った知識をもとに、「無常という事」を読解し、この問いに逃げずに立ち向かえるかどうかを試します。

完璧な答えはもとより要求しません(そんなものがあるとしての話ですが)。「思考→表現→検討」のプロセスを踏めるかどうかを問います。

この箇所に到達するまでに、「美」と「美学」の違いやら、なぜ急に「歴史」の話になったのか、といった難問にもなんとか取り組んできましたから、今回もきっとやってくれるはずです。

(ちなみに特定の個人に答えを聞くのではなく、3~4人のグループで話し合った結果を紙に書いて黒板に貼る、という方式が中心です。)

さて、10分くらいですべての班が考えた結果を掲示します。

辞書的な説明にとどまる班もありますが、「思い出す」には、いくつかの班に共通する内容も。

それが「記憶」にはなく、「思い出(す)」ことにはある、共通のワード「」です。

「思い出す」ことは、その当人だけの個別な行為です。筆者が、比叡山でなま女房の文章が「自然に」心に浮かび、心にしみわたったという経験をしたことを指しています。

そしてその心の動きこそが「美しさ」だというのです。

だから「思い出」は美しいのだと。

教員の性というか、ここまできて蛇足のような説明を加えてしまいますが、それがなくてもなんとなく分かったような・・・(^_^;

受験も、TVのクイズ番組でも、「記憶」力の重要性ばかりを謳いますからね。だから記憶力の悪い(と自分で思っている)生徒は自信が持てないでいるんです。

それよりも「上手に思い出す」ことができれば、もっと自然に、豊かに生きられるのに・・・

いや、誰にでも言えます、ね。

インプットとアウトプット

前回の続き「記憶」と「思い出す」の違いについてです。

実はこの前、何気なくyou tubeでメンタリストDaiGo氏の動画を見たんです。そしたらちょうど興味深い話が。(ちなみにボーカリストは”DAIGO”で綴りが違うんですね。初めて知りました^^)

彼のブログに似たような話題があったので、そちらを引用します。

「思い出す」  人間はインプットしているときではなく忘れたことを思い出す時に記憶が深まります。ですから、思い出す回数を増やすようにしたほうが良いです。 例えば、テキストを1ページ読んだら、そのたびにテキストから一度目を離して、あるいは目を閉じて今読んだばかりの内容を思い出すということをしてください。書いてあった内容や自分がどう感じたかということを思い出してください。

Mentalist DaiGo Official Blog

1ページ毎なのは、思い出す回数が多ければ多いほど記憶に残りやすくなるからだそう。

このあと、マーカーで線を引くなら、思い出して大事だと思ったところに引くのがよいとか、ノートを取るのもテキストを閉じて思い出しながら取るのがよい、といったアドバイスが続きますが、とにかく学習においてもこの「思い出す」ことがとても大事だということですね。

脳科学者の茂木健一郎氏のブログにも。

上手に思い出すこと 2016/5/7 07:22      たとえば、とてもおいしいものを食べたとして、その「おいしさ」自体を記録することはできない。将来的に技術が進んだら、というような話はできるけれども、とりあえず今はできないし、将来もできるとは限らない。 「感動」も記録できない。なぜならはそれは個人的なものであり、複雑なパラメータに依存し、しかも時間的には一回性のものだからである。その感動を与えた風景なり、公演なりは記録できるかもしれないが、「感動」は記録できない。 感覚にせよ、思いにせよ、ほんとうに大切なことは記録できないということは、この記録メディア全盛の時代において、よく考えておくべきことだと思う。たとえば、大切な日の思い出も、ほんとうに重要なことは、どんな方法を使っても、記録できない。 以上の考察から導かれる帰結は二つである。一つは、「今、ここ」の感覚や感情を、よく把握しておくこと。マインドフルネスは、この領域に属する。 もう一つは、上手に思い出すこと。自分の今までの人生での、エポック・メイキングな出来事を、ときどき、上手に、思い出して見ること。それ以外に、ほの暗い過去から、自分の今を照らしだす光源を取り出す方法はないのである。

茂木健一郎オフィシャルブログ

「感動」が記録できない、というところはそのまま「無常という事」で述べられていることとリンクしますね。

そして思い出しました(笑)が、「記憶」と「思い出す」の違いを聞いたとき、こう答えた班がかなりあったんです。↓

4月の最初の授業で、「インプット(暗記)ばかりでなく、アウトプット(人と話したり聞いたり、書いたり)をしよう!」と話したのですが、もしかしてそれを生徒たちが思い出し?てくれたのかも。

そうでなくても、「思い出す」がアウトプットというのは、かなりいい線ですよね。

私たちは何かを書いたり、人としゃべったりするときには必ず過去のことを思い出しているんですよね。

思い出すが先で、アウトプットが後、ということでもないわけです。

心が動く、感動する。その瞬間ではなく、後にそれを思い出してアウトプットする。そしてその心が蘇る。その感動や美しさを実感する・・・

DaiGoの学習法も紹介しながら、もう一度生徒と「思い出す」ことについて話してみたいと思います(^_^)。

「無常」とは

1時間の授業が終わるたびに、生徒は必ずワークシート、別名「振り返りシート」を書いて提出するということになっています。

「記憶と思い出すの違い」をやった後も同じように出してもらいました。

教科書本文の内容というか、その概念がなかなか浮かばない生徒たちですが、DaiGoの文章を紹介した成果もあってか?とりあえず「思い出す」ことが大事というのはなんとなく理解したようです。

しかし最後の「無常」と「常なるもの」についてはやはり悪戦苦闘。結局このふたつを同じものだと混同する生徒も何人か。

教員同士で、「これは分からないということが分かるって体験をさせればいいんだよね」と慰め合う状態です。

それはその通りだと思いながら、やはり教える立場の性で、モヤモヤしている生徒をほっとけません(^◇^;)

ということで、最後にプリントを配りましたが、ちょっとしつこかったかな(>_<)


①「美しさ」について

筆者は「常なるもの」が美しいと言っています。それは「なま女房の声や生き方」のように、もはや変わりようもないもの、それを「上手に思い出す」ことで実感できるということですね。思い出さないで記憶にとどめているだけでは、美しさを感じることはできないと。

では「無常」なもの、私たち生きた人間は美しくないのか?

2組のHさんはワークシートに、「変わっていくからこそ美しく尊いものもあるし、変わってしまうからこそ、不変であるものがより輝くのではないかと思った。」と書いてくれました。そう、私たちは「(美しい)人間になりつつある一種の動物」とあるように、やがてたどり着く美しさへの途上にいるということなのでしょうか。

だからこの世が、人間が、「無常」であることを認識しつつ、もがきながらもしっかり生きていくしかないのでしょう。

5組のYさんは、「自分の経験や思い出が美しく誇れるものになるように、今を生きて変化し続ける。」とTO DOに書いてくれました。まさに!

②「歴史」について

筆者が生きていた時代も今も、歴史を自分の都合のいいように「解釈」する言動は多くあります。鎌倉時代の始まりの年号が変わったとか、そういうことにではなく、「歴史」にあらわれる人間の営みを勝手に想像したり解釈することに対する嫌悪感を表しているのではないでしょうか。「歴史」=「解釈を許さない動じないもの」と断言していますが、筆者の主眼は、そういう人々に対する批判というか忠告にありそうです。それは「美しくない」と。

③「人間」について

「死んだ人間は美しい」なら、「生きている人間は美しくないのか?」という疑問への答えは先ほど書いたとおりです。逆に、「どんな悪事を働いた人間も死ねば美しいのか?」という疑問もあるでしょう。書いてはありませんが、筆者がそういうことを言いたかったかどうかは考えてみてください。

どんな人間にも生きていた時間の歴史、ドラマがあるということだけは意識しておきたいです。

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