漢文の授業。生徒は読み解きに苦労しつつも、いちおう終わって感想を書いたのですが・・・
それが生徒によってかなり違います。
そこでもう一度、みんなで話し合ってもらうことにしました。
話の内容をざっくり言うと、
ある村人が大金(15錠)を拾い、母親に渡します。
母親はそれを息子が盗んだものだと思い、「返してこい」の一点張り。
困った息子が拾った場所で待っていると、落とし主が現れます。
15錠を返すと、見ていた人が「拾ってもらったお礼を渡せ」と。
ところが落とし主、「私が落としたのは30錠だ。半分しかないのに礼などするものか。」
口論になり、役所に行き、聶以道(じょういどう)という人物が取り調べることになりました。
聶は、息子と母の言葉は真実で、落とし主の嘘を見抜きます。
そこで下した判決は、
「これはおまえの金ではない。天が正直者の母子に与えたものだ。落とした金を別に探せ。」
そして15錠を母子に渡し、人々はその判決を称賛しました。
・・・とこんな感じです。
「正直者の親子が報われるいい話」なのですが、でも「この判決、どう思う?」と問いかけてみたわけです。
すると「聶の判決、おかしくない?」「これじゃいくらなんでも落とし主がかわいそう」という感想も見受けられます。
そう、1300年代(日本なら鎌倉から室町時代)の話を、現代版として捉え直してみました。
「論理」か「心情」か
結局、話し合いの結果は二つに分かれました。
「聶の判決は、法的におかしい。」グループと、「かもしれないけど、判断はよかった。」グループとです。
こうなると、「正解」は決められません。
けれど、判決を人々が称賛した理由ははっきりしていますよね。
聶は、正直者の母子を信じ、落とし主も「詐欺罪」で罰することはしませんでした。時には、「法」「論理」「合理性」を超えたところに大事なものがあるということでしょうか。
いや、単純な話と思いましたが、意外と考えさせられました。
漢文もなかなか面白いです^ ^
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