「舞姫」(森鷗外)〜豊太郎の生き方は許せない?〜

日々のこと

「舞姫」の授業が終わりました。

高3で読むことになっていますが、やはり明治時代の文語文に生徒は悪戦苦闘。10時間近くかけたのに、ストーリーがあまり分かっていない生徒もいるようです。

まあそれには別の要因もあります。

今回はこの長い小説をABD方式で読んでみようと、あえて全文を通読せずに班ごとに分担してサマリーを作ってもらうことにしました。

だから分量としては1時間に1ページくらい読むだけなのですが、その担当箇所より前のストーリーが分からないので繋がらないんですね。

そしてたとえば「余」という一人称にも馴染みがないし、「彼」と言う三人称がエリスのことだとしても、もう男性のイメージしか持てないようです。

そんなこんなでいよいよ最終段。豊太郎が一人で日本に帰るということを、豊太郎の親友相沢から告げられたエリスは精神的におかしくなってしまいます。

あれほど信じていたのに、私を騙した、裏切ったのかと。

日本に帰ることにした豊太郎は、その罪の重さから意識を失い、気づいたときにエリスは「生ける屍」になっていたのです。

妊娠しているエリスを残して帰国する豊太郎。窮地にいた自分を助けてくれた相沢に感謝しつつ、「人知らぬ恨み」をどうしても抱いてしまう。

そんな豊太郎に対して、生徒はどう感じたでしょうか。

何十年もこの「舞姫」を授業でやっていますが、だいたい男子も女子も豊太郎への批判の嵐です。

「男のクズ!」という強い怒りもありました。

でも、このところ、少し様子が変わってきた…気もします。

男子も女子も、豊太郎を理解する、そういう声が少なからず増えてきました。

さて、これっていったいどういうことなのか?

もう少し分析してみたいと思います^ ^

目次

「舞姫」前半のあらすじ

舞台は明治時代の日本、主人公の太田豊太郎は今でいえば東大を主席で卒業、国家公務員として国費留学を命じられるほどの超エリートです。

ベルリンへの留学も、太田家の興隆と自分の名誉のため。仕事もそつなくこなしながら、将来目指す政治家になるための学問にも打ち込んでいました。

ところがベルリンに来て3年、豊太郎25歳、自由な大学の雰囲気に触発されたのか、彼は本当の自分(「まことの我」)に気づきます。

今までは死んだ父の遺言や母の教えに従い、人に褒められ、ただ「所動的・器械的の人物」だった。主体的に考え、行動する人間ではなかったと。

政治家も、法律家も自分の目指すところとは違う。そう考えた彼は学問も歴史文学に心を寄せていきます。

しかし今まで逆らうことのなかった豊太郎が自分の意見を主張するようになったことで、それを快く思わない上司(官長)は彼の地位を奪おうとします。

そのときにエリスという踊り子の少女と出会い、もともとつきあいの悪い豊太郎を憎んでいた留学生仲間は、二人の関係を誇張して官長に密告。それによって彼は免官、免職されてしまいます。

日本に帰る(帰っても職はない)か、このままベルリンにとどまる(名誉を回復する手段を失う)か、1週間のうちに決めなければならないというその時、日本に残した母の死を伝える手紙を受け取ります。

母親がなぜ亡くなったのか、物語に描写はありません。しかし、ほかに家族もなく、豊太郎だけが頼りで誇りだった母親にしてみれば、息子の失脚はこれ以上ないショックだったはずです。

いずれにせよ、豊太郎は今まで彼が得ていたものすべてを失いました。「国家」という大きな壁に対して自己の主張をし始めたことによって。

そしてこの初めての挫折が、唯一の肉親を失った孤独感が、エリスとの関係を深いものにしていくことになります。

・・・と、ここまでは「自我に目覚めた超エリート青年の挫折と苦悩」という分かりやすい形で、物語をとらえることができます。

生徒たちもこの主人公に対して、(エリートという点で)それほど親近感は持てなくても、気の毒だと思う気持ちはあります。

が、問題はここから。

豊太郎の優柔不断な考えや行動が出て来ます。

豊太郎の「心の揺れ」

日本にいる親友の相沢謙吉が、豊太郎の免職を知って仕事の援助に乗り出し、豊太郎はしばらくベルリンに留まることが可能になりました。

エリスの家に住み、新聞社の通信員として働き、「憂きがなかにも楽しき月日」を送るようになりますが、これも相沢がいたからです。

そんな折、エリスに妊娠の兆候が。

豊太郎は、もしそれが本当だったらどうしようと動揺を隠せません。

現在の生活は何とかなっているものの、将来のあてがまったくないのですから、そんな状態で子どもなど…

無邪気に喜ぶエリスをよそに悩む豊太郎のもとへ、相沢が日本からやって来ました。

相沢は外遊の天方大臣に同行してきたのです。豊太郎の話を聞いたあと、彼は2つの点を提示します。

まず豊太郎の語学の才能を天方大臣に示し、信用を得よ。それが名誉回復につながると。

そしてどれだけ愛し合っていても、君と舞姫のエリスとは釣り合わない。この関係は断つべきだ、と。

ここで豊太郎は、恩人の親友に言われたこと故、エリスとの別れを承諾してしまいます。

もちろん心の中では決めかねているのですが。

この中途半端な約束が、のちに取り返しのつかない悲劇になっていきます。


ここまで読むと、生徒たちも少し主人公に疑問を持つようになります。

簡単に言えば、エリスのことをどう考えているのか。

愛しているなら、子どもができたときのことも考えて生活設計するべきじゃなかったのか?

子どもができたことを素直に喜べないなんておかしくない?

いくらお世話になった親友でも、「エリスと別れることはできない。」とはっきり言うべきではなかったのか?

当然と言えばあまりに当然な感想です。

この辺りから豊太郎の評価が下がり続け、ラストで完全に「クズ」呼ばわりされるのですが…

でも授業はここから。彼らの捉え方は果たして変化するのでしょうか。

「嗚呼、何らの悪因ぞ。」

エリスと出会ったことを、豊太郎はこのように語っていました。

「ああ、なんという悪い結果をもたらす原因だったろう。」

免官、免職してしまったのは、エリスとの関係を留学生仲間から誤解されたことが原因。エリスとの出会いが自分の不幸を招いたということであり、言い換えれば「エリスと出会わなければよかった」ということにもなります。

すると豊太郎はエリスとの愛そのものを後悔しているとも捉えられ、生徒たちが豊太郎の心情に引っかかる、違和感を感じる最初の描写です。

けれど、それが心から愛する女性に対する豊太郎の真意、なのでしょうか?

帰国途上の船中、彼の脳裏に浮かんで離れないのはベルリンに残したエリスのこと。そしてそれは豊太郎にとって初めての恋愛であり、その愛を貫き通したいと願っていたことは随所に窺えます。

もし悪因というなら、それは彼自身の失脚のみならず、エリスに起こったこともすべて含めての名付けなのかもしれません。

出会わなければエリスが狂うこともなく、これほど苦しい別れもなかった。あまりにも当然のことですが、取り返しのつかないことをしてしまったという後悔の念を、そのような言い方でしか表現できなかったということでしょう。

この言葉を豊太郎が自分のことしか考えてないと捉える生徒は多く、だから最後の評判の悪さに繋がっていくのですが…

人知らぬ「恨み」とは

もうひとつ、親友である相沢謙吉への心情です。

物語の最後で、相沢ほどの良友はいない、けれどどうしてもこの「恨み」が消えず、自分を苦しめていると言うのです。

良友相沢は、豊太郎がベルリンに残るか日本に帰るか、その瀬戸際の時、仕事の世話をして豊太郎を救いました。

また天方大臣に同行してベルリンに来たとき、豊太郎が大臣からの信用を得られるよう配慮します。

すべて豊太郎の名誉を回復するため。翻訳や通訳の仕事が成功すれば、必ず一緒に日本に帰れると。

しかし、同時にエリスとの恋愛は「慣習」に過ぎない。だから別れるべきだと強く迫ります。

相沢の言葉は、ある意味当然です。

まず失脚の原因となった女性問題がまだ続いているとは大臣に言えるはずがありません。またエリート豊太郎に舞姫エリスという不釣り合いな関係はあり得ない。たとえ本当に愛しているとしても、それが永続的な関係にはなり得ない。

先の見通しを持っていたからこそ、相沢はエリスと別れるという約束を豊太郎から引き出したのです。

さらに言えば、豊太郎は相沢からエリスとの関係を断てと言われて初めて自分の位置を確認したのであり、その後もエリスの愛と自分の仕事や生活を両立するプランをまったく考えようとしていませんでした。

この中途半端な状態と相沢や大臣への受動的態度が、最終的にエリスを精神的に殺してしまうことになります。

生徒の反応は、相沢を責めるのはおかしい、豊太郎との約束を告げただけだ。むしろ豊太郎のために奔走してくれたのだから、「恨み」というのは違うだろう。そういう声ばかりです。

ここでも豊太郎の分は悪く、評価を下げます。

エリスへの裏切り、責任放棄?

エリスは豊太郎が日本に帰る日が近づいていることを察知し、その時は一緒に日本に行くと決意していました。

よほど現実的に、愛を貫く道を模索していたのです。

しかし豊太郎は、天方大臣からの帰国の勧誘(当然自分だけです)を承知します。

エリスは捨てがたい、しかしここで大臣の言葉を拒否したらもう二度と日本には帰れない。そんな選択はできないと。

結果的にエリスを裏切り、そしてそのことを相沢から告げられたことで狂ったエリスをベルリンに残して帰国する豊太郎。

こうした優柔不断な態度や行動に対して、いよいよ生徒たちも豊太郎を許せない、という気持ちを固めます。

しかしこのままでは、この主人公に共感し難い小説がなぜ何十年も教科書に載っているのか分かりません。

エリートの青年が自我に目覚めたつもりでいたけど、やっぱり違った。ただの意志の弱い無責任な男だった。という読みで終わってしまいます。

どうやってそれを揺さぶるのか、いくつかの問いを発してみます。

豊太郎がエリスを置いて日本に帰ることについてどう感じましたか。

懐妊しながら精神を病んでしまったエリスを残し、豊太郎は日本に帰って行きます。

そのことに対してどう思うか、グループで話し合います。

物語を読んだだけで、こちらから余計な解釈も付け加えないままの問いです。

すると、クラスによって多少の差はありますが、概ね8割以上が豊太郎を「許せない」という反応です。

そこで問い方を変えてみます。

「あなたがもし豊太郎の立場だったらどうしましたか。」

他人事から自分ごとへ。簡単なことですが、このパラダイム転換で生徒は真剣に考え出しました。

そして出た結論は、「ベルリンに残り、エリスと一緒に暮らす道を選ぶ。」と答える班は少数。

「豊太郎と同じように日本に帰る。」が大多数です。

中には「大臣に本当のことを話してエリスを連れて帰る。」「一度帰国して、落ち着いてからエリスに会いに来る。」という折衷案を出してくる班もありますが、それが出来るなら苦労はしません。

客観的に見ていたときは豊太郎を断罪しますが、自分の立場になればやはり現実を考えてしまうんですね。

そしてもうひとつの問い。

この小説のテーマはなんだろう

こんなバッドエンドの話が教科書に載っているのは何故? 文豪の作品だから? 違うとすればどうして?

主題を考えるということは、正解を絞り込むことではなく、読み手がこの物語をどう自分の中に落とし込んだかを問うということです。

だから答えは無数にあり、性差や時代によっても変化します。

今回は「愛と名誉の葛藤」「愛と友情とプライド」「意志の大切さ」など。

さらには「仕事と私、どっちが大事なの?」「僕の養分はエリス」などというドラマのタイトルみたいなものも。

それぞれ、なぜそのテーマになったかを聞くと、なるほどなーと思える発言をしてくれます。

ダメダメ男に思えた豊太郎を通して、自分の気持ちや生き方を考えるきっかけにはなりました。

超読みにくい「舞姫」を読む意味、少しは分かってくれたかな?

豊太郎がエリスを置いて日本に帰ることについて、あなたが感じたことを書いてみよう。

授業の最後に、今までみんなで考えてきたことを整理する意味でプリントを配りました。

という生徒への問いに対して、私なりの見解を書きました。

豊太郎には、天方伯の信頼を得ることが名誉回復と帰国につながるという考えが、エリスの第二の手紙を見るまでなかった。

免官になり、「国家」の呪縛から解き放たれて「自由」を得たと思っていたのは誤解で、「国家」の支配が官長から天方伯に変わっただけだと気づいた。

 もとより、「自由」をとるか、日本での出世をとるか、その岐路に立っているという自覚が豊太郎にはない。また日本に戻らずエリスとの生活を永久に選択するという覚悟があったわけでもない。

西洋的「個人」という考え方は結局豊太郎のものになっておらず、当時の日本人の一般的思考から完全に抜けられてはいない。

エリスを愛していたことは事実だが、その生活を持続させるためには、「個人」としての自立が必要だった。その意味での主体性や先見性は豊太郎にはまだ欠けていた。

当時の状況から考えて、「舞姫」との結婚や生活を決意するというのは、どの日本人にとってもむずかしい決断であったろう。また自己の名誉や生活を投げ打って、異国の女性との生活を選択できるかどうか。

こうした状況の中、豊太郎が天方大臣の帰国の勧誘を承知するのは当然だったのではないか。


「個人」という観念がまだ確立していない時代のこと、現在と同じ感覚で豊太郎を断罪することはできません。

いやむしろ、これだけ個人の意識が発達して「自由」になったはずの現代でも、同じような悩みは多いのではないでしょうか。

この国で私たちを縛るもの、その正体についてもう少し見つめ直す必要がありそうです。

豊太郎の相沢を「憎む心」について、あなたが感じたことを書いてみよう。

 相沢は、何度も自分の危機を救ってくれたかけがえのない親友であり、感謝の念は絶えることがない。

 しかし、エリスを錯乱状態に追いやったのは、豊太郎が人事不省になっているときに、相沢がエリスに事実のみを伝えてしまったことが原因だと考えている。

 豊太郎は、もし自分がエリスに直接話す事ができていたなら、そのような悲劇は起こらなかったと考えているのではないか。相沢への感謝と、その恨みという矛盾した感情が豊太郎に止みがたくつきまとう。

明治という大きな変化の時代に生きた人間の悩み、近代人であるからこそ起こった悲劇だといえる。相沢もまた豊太郎が忌避した「国家」の代表的人物であり、豊太郎のエリスへの思いを理解してはいなかった。そのことも相沢に対する複雑な心情の一因かもしれない。

相沢は、豊太郎の発言(エリスと別れる、日本に帰国する)の代弁者にすぎず、相沢への恨みはそのまま豊太郎自身への自責や悔恨の念として捉えることもできる。


近代化の狭間で生きた2人の間には、埋め難い齟齬がありました。

エリスとの愛を理解してくれなかった相沢。「個人」になりかけた自分を引き戻した相沢。

エリスという女性とのことに焦点を当てがちですが、この豊太郎と相沢の関係もまた大きなテーマではないでしょうか。

なぜ120年も前の小説を私たちは教室で読むのか?

 相沢への恨みとは、紛れもなく豊太郎自身の後悔と懺悔の裏返しであり、責任の転嫁とは思えない。それでもそう読めてしまうとすれば、それはどのように分析し解釈しても捉えきれない愛というもの、理解し得ないものに豊太郎がまだ混乱しているということなのだろう。

最終的に、「まことの我」「真実の愛」は国家と常識の前に敗北する。豊太郎は相沢によって自身の名誉は保たれたが、失ったものの大きさに茫然とする。この悲劇を、豊太郎の優柔不断な態度に全て終着し、自分の物語として読まないのであれば、私たちが読む意義はどこにあるのか。

 生きることが困難な状況は、豊太郎の時代も今も変わらない。

 愛する人を守るためにはどうすればいいのか。

 愛と自我の両立をどのように目指せばいいのか。

そのような問いを「舞姫」は投げかけているのではないだろうか。

「舞姫」のとらえ方、いまむかし

それにしても30数年前からこの物語を取り上げていますが、生徒の反応が以前とはかなり違うような気がしています。

以前というのがいつ頃かというと難しいのですが、少なくとも10年ほど前と比べると、かな。

その大きな違いは、豊太郎の選択、懐妊し病んだエリスを残して日本に帰るという選択を「仕方ない」とする率が相当高くなったということです。

前は男子も女子も、「許せない」とする声が圧倒的、特に女子はそうだったんですが、今は4割、もしかすると半分以上は豊太郎寄り?

舞台は明治、国家と家の呪縛が強力だった時代の話。現代と同じ価値観で判断しないように、ということを話す前での判断ですから、まあ本音でしょう。

いったいなぜなんでしょうね?

「恋愛」観の違い?

考えられるのは、今の生徒って、男女の「壁」が薄いんです。

社会的に男性が優位だった時代ではなくなってきたし、「男が女を守る」「告白は男から、女は待つもの」みたいな感じはとっくにありません。

校則の違反とか、反社会的行為とかもほとんどなくなって、そういうことに手はかからなくなりましたが、その分恋愛にも淡泊。「草食系」も比喩でなく、ガツガツした感じがありません。

なんでこうなったのか、ひとつにはネット情報の広がりがあると思います。

かつては異性への関心、特に「性」の関心があってもそれはまず秘めるものだったし、その情報を手に入れるのも困難でした。

情報が遠い分、異性は未知の存在、なかなか手の届かない存在になり、妄想も広がり…

まあ男子目線ですが、だから女子は憧れで欲望の対象だったんですよね。そして女子にとっても「恋愛」がその年頃の最大の関心事でした。

昭和の時代、「愛と誠」という漫画がありました。(調べたら1973年に始まったそうですから、昭和48年です)ストーリー的には暴力や乱闘シーンが多かった気もしますが、印象に残っているのは早乙女愛と太賀誠という高校生の「純愛」です。

そこまで遡らなくても、平成の中頃くらいまでは生徒にとって最も重要なテーマは「愛」だったと思うんです。

でも今、「恋愛」→「結婚」→「出産」が理想なんて考えてる女子はほぼいません。

社会の変化が考え方も変えた⁉︎

キャリア教育のかいあって、「男は仕事、女は家事」なんていうのも死語となり、女性も一生仕事するのが普通だと思ってます。

そうなると、女子は豊太郎の帰りを待つ「エリス」の目線で物語を読んでないんですね。むしろ仕事と恋愛のはざまで悩む豊太郎のほうに感情移入するということ。

男子は男子で、豊太郎を批判するにしても「男のくせに優柔不断だ!」「男だったら女を守れよ!」というような論調ではありません。

「男らしさ」の欠如ということで豊太郎を見ているわけではなく、まあ人間としてどうなのかな?という感じです。

まあそれ以外にもいろいろあるとは思うんですが、この傾向、どうなんでしょう。

男女同権や機会均等は当然のことです。そういう社会的な面で今は前よりよくなっているのでしょうが、あの、異性を崇めるような思い、他を顧みないほどの恋愛への憧憬も抱きにくくなってしまっているような気が。

そうなると恋愛にも向かわないし、結婚もしなきゃと思わないし、当然子どもも欲しくないから、結果少子社会になるに決まってますね。

ジレンマです。

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