ニューヨークも東京も株価が大幅に下がり、倒産する会社も出ているとか、新型コロナウイルスの影響はとどまるところを知りません。
全国の小中高校の休校も大変な事態ですが、日本、いえ世界全体がこれまで経験したことのないような状況に陥っています。
この状態がいつまで続くのか、感染がいつ収まるのか、まったく見えないということが人々の不安を増大させています。
「檸檬」の冒頭の一行が浮かんできました。
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた。
梶井基次郎「檸檬」(青空文庫より)
「檸檬」は肺結核を病み、死や生を凝視していた梶井の私小説とも言えるでしょうが、その内面が日常のちょっとした風景や小道具に、見事に形象化されています。
「私」はこの「えたいの知れない不吉な塊」について、こう述べます。
焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。
梶井基次郎「檸檬」(青空文庫より)
焦燥、嫌悪という、自覚はできるけれど自分ではコントロールできない心の働き。まるで「宿酔(二日酔い)」のような何とも言えない嫌な感じです。
(ちなみに、ここの「結果した」について、どう取るかという議論がありますが、それはまた次回に)
酒を毎日、大量に飲まなければ二日酔いにはならない、それは分かってはいるけれど飲んでしまう、というのが酒飲みの性です。
酒に限らず、結果としてどうなるかが薄々分かっていて、それでも抑えきれない行動をとってしまう、人間のありがちな行為がこの「不吉な塊」を呼び起こしてしまいます。
新型コロナウイルスを自分が直接生み出した、とは誰も思っていません。ただ、物事には知り得ない、特定できない原因というものはどこかにあるはずであって、私はまったく無関係で100%の被害者である、とも言えないでしょう。
いや犯人捜しをしている場合ではありません。発生源の中国や、韓国を非難しても仕方がない。まして感染者に対してです。さらに、デマを拡散したり、買い占めや転売をしている場合でもありません。
えたいの知れない「不安」は、いまここにあります。なぜそうなったかを考えたり探したりしてもその不安はなくなりません。
かと言って、むりやり不安を払拭しようとしてもおそらく無理でしょう。ただの「楽観」になるのがオチです。
梶井は、不吉な塊にとらわれた自分の心を、小説という形を取ることによって表現しました。
今の自分に寄り添ってくれるのは、壊れかかった街、裏通りというような「みすぼらしくて美しいもの」。
そして、
私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。
梶井基次郎「檸檬」(青空文庫より)
と、好きな果物屋で買った「檸檬」によって幸福になれたという不思議を表現しました。
物語の最後に「私」は、気詰まりな場所になってしまった丸善を、その「檸檬爆弾」によってこっぱみじんにしてしまいます。もちろん「想像」することで。
何も起こらない、けれどそのとき、その「想像」が「不吉な塊」をかき消してくれます。
いま、事態をすぐに変えることはできないのなら、私たちができる最大のものはこのイマジネーションではないでしょうか。
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