「天気の子」テーマ考察 〜少年が大人になる物語〜

日々のこと

「天気の子」はどのような物語なのだろうか?

「この映画について『許せない』と感じる人もいると思いました」という新海監督の言葉がある。それは、主人公帆高の描き方だ。

「僕は、本作を帆高と社会の対立の映画だと思っていて。個人の願いと、最大多数の幸福のぶつかり合いの話だと思うので、そこに社会は存在している。帆高は大人の社会で働こうともするし、警察も出てくるわけです」と社会と関わっていく物語だと話す。「僕がつくるものがどうしてそうなったかというと、かつてのように、無条件に社会がそのまま存在し続けるとは思えなくなってきているから。そういった感覚があるからこそ、アニメーションの中にも社会を描くことが、どうしても必要になってきているのではないかと思っています」。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190810-00200868-mvwalk-movi

「無条件に社会が存在し続けるとは思えな」いことは、ラストで「東京が水没する」というシーンにもよく表れている。

その不確かな社会で生きなければならない人間の姿を描こうとしたことで、この映画は単なるファンタジーで終わらなかった。結果、観た人に賛否両論を巻き起こした。

主人公が社会と対峙し、その中で自己の生き方を確認し、幸福をつかんでいくというテーマは決して目新しいものではない。しかし、それをアニメーションという世界で描こうとすることもそれほど簡単ではない。

前作「君の名は。」は時空を超えて出会うはずのない2人が出会うという、超現実的な物語であった。そしてそこに私たちは魅せられた。

それに比べると、「100%晴れ女の存在」「長雨で東京が水没する」という状況はあるものの、今回はかなり現実寄りなストーリーであり、ともすると物足りなさも感じてしまう。

そのような批判を覚悟しながらも、アニメ=ファンタジーという図式の中に、社会的要素を混ぜ込んできた、そこに新海監督の強い決意が表れているように思う。

帆高の言動は、社会の常識派からすれば認められないものだ。警察から何度も逃げ出したり、拳銃を所持し、挙句2度も発砲し、最後はこう叫ぶ。

「でも、私が戻ったら、また天気が……!」 「もういい!」  僕は怒鳴る。陽菜が驚いた顔をする。僕は決めている。他のことなんてどうだっていい。神さまにだって僕は逆らう。言うべきことはもう分かっている。 「もういいよ! 陽菜はもう、晴れ女なんかじゃない!」  見開いた陽菜の瞳に、激しく明滅する稲妻が映る。雷鳴に振動する雲間を抜け、僕たちは積乱雲の下をまっすぐに落ちていく。眼下には輝く東京の街がある。街と陽菜に、僕の手は近づいていく。僕は陽菜に叫ぶ。そう、言うべきことは分かっている。 「もう二度と晴れなくたっていい!」  陽菜の瞳に涙が湧きあがる。 「青空よりも、俺は陽菜がいい!」  陽菜の大粒の涙が風に舞い、僕の頰にあたる。雨粒が波紋を作るように、陽菜の涙が僕の心を作っていく。 「天気なんて──」  そしてとうとう僕の手が、 「狂ったままでいいんだ!」

『小説 天気の子』新海誠

「陽菜がいてくれさえすれば、天気なんて狂ったままでいい」という帆高。そして陽菜が「天気の巫女」でなくなった結果、東京には3年も雨が降り続き水没する。

しかし、「自分たちさえ良ければいい」という帆高に、なぜ私たちは共感してしまうのか。このことを映画のラストシーンとの関連で考えてみたい。

東京が水没したままのラストをどう捉えるか

帆高は、東京の大部分が水中に沈んでしまったのは自分の責任だと思っている。が、「元に戻っただけ」と言う立花冨美や「まあ気にすんなよ、青年。(ここで帆高の呼び名が少年から青年に変わっていることにも注目したい)世界なんてさ──どうせもともと狂ってんだから」 と言う須賀は、そのことをそれほど意に介してはいない。

そしてその街に生きる人々もまた、雨の中の桜を心待ちにし、鉄道の代わりとなった船での移動をすっかり通常の交通手段として受け入れていた。

確かに雨の降り続く空は暗く、かつてと同じ便利な生活は望めなくなっている。しかしそれが現実なら、その中でたくましく生きるしかない。

水没したまま終わることから、この映画をバッドエンドと見る向きもあるが、自然の猛威と、それに対して人々が向き合ってきた姿勢が表現されているだけではないだろうか。

映画に登場する占い師がこう言っていた。

「天の気分は人の都合などには構わず、正常も異常も計れるものではない。そして我ら人間は、湿って蠢く天と地の間で振り落とされぬようしがみつき、ただ仮住まいをさせていただいているだけの身。昔は皆それをよーく知っておった」

『小説 天気の子 』

3年間降り続く雨も自然現象。それにしがみついて生きるのも、自然に対して人間がとってきた態度のうちだと。

帆高がどう思おうと、人々は、愛する人のために勇気を振り絞る帆高を許している。

この映画は、心から愛する人がいる人たちに寄り添う物語である。世界がどうなろうと、いちばん大事な人がいてくれればいい。帆高の身勝手だが純粋な思いを、私たちはどこかで、いや今でも経験しているのではなかったか。

それは陽菜の弟である凪が、代々木の廃ビルで警官に殴りかかりながら、「帆高、全部お前のせいじゃねえか!」「姉ちゃんを返せよっ!」と叫ぶ気持ちも同様である。

帆高は、冨美や須賀の言葉で慰められたものの、最後のシーンでは、やはり自分たちが世界を変えたと思っている。

「──違ったんだ、と、目が覚めるように僕は思う。  違った、そうじゃなかった。世界は最初から狂っていたわけじゃない。僕たちが変えたんだ。あの夏、あの空の上で、僕は選んだんだ。青空よりも陽菜さんを。大勢のしあわせよりも陽菜さんの命を。そして僕たちは願ったんだ。世界がどんなかたちだろうとそんなことは関係なく、ただ、ともに生きていくことを。」

『小説 天気の子 』

原因がなんだろうと、重要なのはそれを「選んだ」と思えること、と帆高が教えてくれる。

誰のせいでもない、自分が選び、そして願うことが大切だと。

それが大人になることだと。

須賀圭介という存在の意味

須賀が、警察に追われている帆高に数万円を渡して、「もうここへは来るな」と言う。

言うまでもなく保身であり、自分の娘を迎えるためにトラブルは避けたいという気持ちからだ。

だが「人間歳取るとさあ、大事なものの順番を、入れ替えられなくなるんだよな」と自分を後悔して夏美に言う須賀もまた存在する。

代々木の廃ビルで帆高に、あきらめて警察に行けよという須賀と、最終的に帆高を助ける須賀は矛盾しない。

家出少年に食事やビールをたかる、月に3,000円の給料しか渡さないクールな大人も、やがて純粋な少年の思いに寄り添っていく。

会社で警官に、帆高が陽菜を探しに行ったと聞き、無意識に涙を流す須賀も、雨水が部屋に入り込むのをわかっていて窓を開けてしまう須賀の理不尽な行動も、どこかで私たちは理解しているのではないだろうか。

理不尽で、自己中心的で、現実的。そんな自分を受け入れ、かつ遠ざけたいと思っている大人。それはこの「どこか狂った」社会で生きる大人の姿そのものである。

でもその須賀がいたからこそ、帆高は大人になることができたと言えるのではないだろうか。

「愛と勇気」の裏に、少年たちの成長物語がある

帆高が島に戻されたあと、どんなことを考えて生活を送っていたのかは、やや長いが次の一節が参考になる。

「それは奇妙にしんとした年月だった。まるで海の底を歩いているように、地上から遠く隔たれているような気分のまま僕は日々を送った。誰かの語る言葉は僕にはうまく届かなかったし、僕の言葉も、人々にはうまく届かないようだった。今までなにも考えずに出来ていたことが、自然には出来なくなってしまっていた。無意識に眠ることも、当たり前に食事をすることも、ただ歩くことさえも、僕にはなんだかうまく出来なかった。油断していると右手と右足を同時に出して歩いてしまいそうだった。実際に僕は道でつまずき、授業では質問された内容を忘れ、食事では箸を持ったまま止まってしまうようなことが何度もあった。それを人に指摘されるたびに、僕は意識してにっこりと笑顔を作り、「ごめん、ちょっとぼんやりしていただけだから」と穏やかに言った。誰かを心配させないように、安心してもらえるように、僕は出来うる限りきちんとした生活を送るように努めた。それは掃除を進んでやるとか授業を真剣に聞くとか人付き合いから逃げないとか、まるで言いつけを守る小学生のような所作に過ぎなかったけれど、いつの間にか成績は上がり、友人は増えていった。大人から話しかけられることも多くなった。でもそれは、ぜんぶ副作用みたいなものだった。僕が目指していることはそういうことではなかった。夜、濡れた窓ガラスの向こうに、朝、灰色の海の向こうに、僕は彼女の気配を求め続けた。雨音の中に、あの夜の遠い太鼓を探し続けた。  僕はそのようにして、慎重に息をひそめるように卒業の日を待ち続けた。」

『小説 天気の子 』

もう一度陽菜に会うために、帆高が「選んだ」のは、それまでの真っ直ぐな思い、自分らしさを捨てて「大人になる」ことだった。

観るものは感情移入できないかもしれない。だが私たちもまた、このような静かな、自分自身を感じられない時期を過ごして来てはこなかったか。これもまた帆高にとっては必要な、大人への潜伏期間だったのではないだろうか。

また須賀の姪、夏美が警察に追われる帆高をバイクに乗せて救う場面がある。

バイクが溜まった水で動かなくなったとき、帆高を逃したあとこう呟く。

「──私はここまでだよ、少年。  私は胸の中で、もう一度そう言う。  私の少女時代は、私のアドレセンスは、私のモラトリアムはここまでだ。  少年、私はいっちょ先に大人になっておくからね。君や陽菜ちゃんがどうしようもなく憧れてしまうような大人に。早くああなりたいって思えるような大人に。とびきり素敵な、圭ちゃんなんて目じゃない、まだ誰も見たこともないようなスーパーな大人に。  遠ざかっていく思春期の背中を見つめながら、晴ればれとした気持ちで私は祈る。  だからちゃんと、君たちは無事に帰ってくるんだよ。」

『小説 天気の子 』

夏美が初めて陽菜に会った時、陽菜もこう言っていた。「私は── 早く、大人になりたいんです」

少女たちもまた、大人になることを引き受けようとしていたのだ。

「皆、本当は分かっているくせに──と、走りながら僕は思う。  皆、なにかを踏みつけて生きているくせに。誰かの犠牲の上じゃないと生きられないくせに。陽菜さんと引き換えに青空を手に入れたくせに。  そしてそれは、僕も同じだ。」

「僕自身が不完全であるのと同じように、大人たちもまた等しく不完全なのだ。皆がその不完全さを抱えたまま、ごつごつと時にぶつかりながら生きているのだ。僕は気づけばそれをすんなり受け入れていた。」

『小説 天気の子 』

大人は、誰かの犠牲の上に生きている。だが、自分自身も同じだと。帆高は、自分のせいで陽菜を失い、他のものを犠牲にして陽菜を取り戻した。

陽菜は帆高にとっての希望であり、憧れであり、絆。それまでの帆高になかったものを陽菜が与えてくれた。

そしてもしかしたら「恋」。

なによりも「勇気」。

空の上で、「陽菜!」と初めて呼び捨てにした時、少年は大人になったのだろう。

この物語はハッピーエンドではないのか

映画には多くの謎がある。たとえば陽菜の母や須賀の妻明日香も「晴れ女」だったのではないか、明日香はなぜ死んだのか、陽菜と凪の父親の影がないのはなぜか、帆高の家出の原因は何か…だがそれらをすべて描いてしまったら、この映画はどうなってしまっただろう。ディテールがすべて必要というわけではない。むしろ「謎」がさまざまな見方を与えてくれている。

ただひとつ、どうしても気になってしまう場面がある。

映画のラストシーン、陽菜と帆高が再会するあの時、陽菜は何を祈っていたのだろうか。

彼女はたぶん思っている。

あの時、自分を犠牲にして晴れを願った。それを帆高が救ってくれた。

もう「天気の巫女」としての力はない。私ができるのは、私が選べるのは、ただ祈ること。

なんの力がなくても、帆高を、凪を、大事な人を、すべての人を、幸せにしてくださいと。

「僕たちは願ったんだ。世界がどんなかたちだろうとそんなことは関係なく、ただ、ともに生きていくことを。」

という帆高の願いをまた重ねながら。

物語は、「僕たちは、大丈夫だ。」という帆高の言葉で終わる。

思えば、あの経験は大人になるための通過儀礼だったのだろうか。

「大丈夫」、世界がどうあろうとも。

「君を大丈夫にしたいんじゃない。君の大丈夫になりたい」

-RADWIMPSのこの歌詞がすべてを表していると思う。

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