現実とヴァーチャルを区別するもの
国語の問題を解いていると、「問題文」としてではなく読み物として興味深いものがいくつもあります。
現代文であれ古典であれ、試験問題になっている文章はほぼ100%初見なので、私たちにとっても新鮮な読書体験です。
ほとんどは文章の一部だけを切り取っているので、全体像ははっきり見えないにしても、妙に心に引っかかる文があるんですよね。
たとえばセンター試験の過去問、平成26年の追試、現代文の評論「正義の哲学」(田島正樹)です。
映画「マトリックス」を取り上げ、(マトリックスって1999年公開だそうです。あのインパクトが20年も前なんてとても思えませんが)現実の世界とヴァーチャルな世界を本当に区別するものは何か?という問題を考察しています。
「現実の世界への覚醒と見えたものは、結局「この世界」(ヴァーチャルな世界)への解釈的介入がもたらした効果(仮象)に過ぎないと言えるのではないか?」
「我々の経験の中には、これこそが疑いもなく現実の経験だという確証を与えてくれるようなものは、何ひとつない。」
2014センター追試 田島正樹 正義の哲学
マトリックスの主人公が支配されている巨大コンピュータに戦いを挑み、現実を取り戻したとしても、果たしてそれが本当の現実なのか分からない、「もう一つの夢」でないという確証は得られないのではないかと言うのです。
「自らの確信を正当化できる絶対の合理的根拠」が欠けている以上、この確信はそれを裏付ける証拠を数え始めると、たちまち夢と区別がつかなくなってくると。
そこで筆者は、「あらゆる理由は不十分であり、あらゆる推論は決断である。」と断言します。
ここで筆者の言う「決断」についてまとめてみます。
- 信じる決断をした人にだけ見えてくる「真実」があるのだが、決断に先立ってそれは知られ得ない。
- 本当は(AかBか)いずれか一方だけが本当の決断であり得、他方は単に決断の回避でしかない。(両方が回避の場合もある。)
- 決断とは、それが為されてみて初めて、実際にはそれ以外の選択肢があり得なかった事が認識されるようなもの。
- 認識は決断を回避する者には決して与えられない。決断した人間のみが現実に直面する。
引き寄せられたのは、決断には「本当の決断」と「決断の回避という決断」がある、ということです。
信じているものが本当に「真実」なのかは「決断」した人にしか分からない。回避という決断からは何も得られない。
だとすれば?
何を根拠に決断するのか?
筆者はさらに続けて、では決断とは、「事前に何のよりどころも与えられていない盲目の飛躍か?」と読者に問いかけます。
映画「マトリックス」では、主人公はコンピュータとの闘争のために選ばれた救世主として登場しています。
周囲の人間も、彼自身にもその確証はないまま、彼は自分を「救世主」であるという「預言」を受け取ります。これが「決断」です。
その決断があったがゆえに、それが確信(=信仰)へと変わり、彼を実際に救世主へと導き始めていくのです。
「未来への行動のひな形」と筆者は表現していますが、「愛」「自由」「正義」というようなもの…そんな曖昧なものだけが決断を後押しするのだと、そういうことでしょうか。
そして今、自分が「決断」しようとしていることと重ね合わせてみます。
「回避」しようとすればいくらでもできてしまうけれど、リスクの多い自由な選択をあえてするのか、それとも今までどおりの安全な、けれどワクワクのない道を行くのか…
答えはもう決まっています。
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