「記憶」と「思い出」
歴史には死人だけしか現れて来ない。従って、のっ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物であることから救うのだ。記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に留まるのは、頭を一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。
無常という事
Q「記憶」と「思い出す」はどのように違うのか。また「思い出す」ことが重要なのはなぜか。
という問題について考えたいと思います。
辞書によれば、
記憶=過去に経験した事柄を忘れずにおぼえていること。また、その内容。(明鏡国語辞典)
思い出=過去の体験や出来事を心に思い浮かべること。また、その内容。(同上)
思い出す=前にあったことや忘れていたことが心によみがえる。記憶が呼び覚まされる。(同上)
などとあります。
辞書によって多少説明は違うし、これはこれで問題の解答に「触れ」てはいますが、「無常という事」で小林秀雄が書いていたことにはなりません。
そして大事なのは、生徒がこの問題に対してどのように考え、答えを出してくるかです。彼らの経験やそれまで培った知識をもとに、「無常という事」を読解し、この問いに逃げずに立ち向かえるかどうかを試します。
完璧な答えはもとより要求しません(そんなものがあるとしての話ですが)。「思考→表現→検討」のプロセスを踏めるかどうかを問います。
この箇所に到達するまでに、生徒は「美」と「美学」の違いやら、なぜ急に「歴史」の話になったのか、といった難問にもなんとか取り組んできました。
(ちなみに特定の個人に答えを聞くのではなく、3~4人のグループで話し合った結果を紙に書いて黒板に貼る、という方式が中心です。)
さて、10分くらいですべての班が考えた結果を掲示します。
辞書的な説明にとどまる班もありますが、「思い出す」には、いくつかの班に共通する内容も。
それが「記憶」にはなく、「思い出(す)」ことにはある、共通のワード「心」です。
「思い出す」ことは、その当人だけの個別な行為です。筆者が、比叡山でなま女房の文章が「自然に」心に浮かび、心にしみわたったという経験をしたことを指しています。
そしてその心の動きこそが「美しさ」だというのです。
だから「思い出」は美しいのだと。
受験も、TVのクイズ番組でも、「記憶」力の重要性ばかりを謳いますからね。だから記憶力が悪い(と自分で思っている)生徒は自信が持てないでいるんです。
それよりも「上手に思い出す」ことができれば、もっと自然に、豊かに生きられるのに・・・
いや、誰にでも言えます、ね。
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