「故郷」(魯迅)〜希望とは道〜

生き方

厳しい寒さの中を、二千里の果てから、別れて二十年にもなる故郷へ、わたしは帰った。

 (中略)

 ああ、これが二十年来、片時も忘れることのなかった故郷であろうか。

 わたしの覚えている故郷は、まるでこんなふうではなかった。わたしの故郷は、もっとずっとよかった。その美しさを思い浮かべ、その長所を言葉に表そうとすると、しかし、その影はかき消され、言葉は失われてしまう。やはりこんなふうだったかもしれないという気がしてくる。そこでわたしは、こう自分に言い聞かせた。もともと故郷はこんなふうなのだ──進歩もないかわりに、わたしが感じるような寂寥もありはしない。

(「故郷」冒頭)

魯迅の「故郷」、読んでから40年以上経ってもなぜか忘れることのできない作品です。

どこの教科書でも中学3年生で扱うことになっているようですから、15歳くらいで読んだのだと思います。記憶は断片的ですが、ごく簡単にまとめるとこんな感じでしょうか。

二十年ぶりに引っ越しのため帰郷した私は、故郷のわびしく活気もない様子に寂寥の感を抱く。 荒れ果てた我が家で、母から子どもの頃一緒に遊んだ閏土(ルントウ)の名前が出て、その思い出にやっと美しい故郷を見た気がした。 しかし久しぶりに会った閏土にはかつての面影はなく、生活に疲れ果てた様子で、 私のことを「だんな様」と呼び、他人行儀である。 悲しむべき厚い壁が二人の間を隔ててしまったのだ。移動の船の上で、「希望」についての感慨を持ちながら私は故郷を後にする。

いちばん覚えているのは、

「だんな様」

・・・という主人公「私」の幼なじみ、閏土(ルントウ)の言葉です。

その場面、ちょっと引用してみます。

来た客は閏土である。ひと目で閏土とわかったものの、その閏土は、わたしの記憶にある閏土とは似もつかなかった。(中略)

   わたしは感激で胸がいっぱいになり、しかしどう口をきいたものやら思案がつかぬままに、ひと言、 「ああ、閏ちゃん──よく来たね……。」

 続いて言いたいことが、あとからあとから、数珠つなぎになって出かかった。角鶏、跳ね魚、貝殻、チャー……だがそれらは、何かでせき止められたように、頭の中を駆けめぐるだけで、口からは出なかった。

 彼は突っ立ったままだった。喜びと寂しさの色が顔に現れた。唇が動いたが、声にはならなかった。最後に、うやうやしい態度に変わって、はっきりこう言った。

  「だんな様! ……。」

 わたしは身震いしたらしかった。悲しむべき厚い壁が、二人の間を隔ててしまったのを感じた。わたしは口がきけなかった。

30年以上も前、10歳そこそこの時に知り合った「わたし」と「閏土」。その頃は何のわだかまりもない、少年同士の心の交流がありました。

「角鶏、跳ね魚、貝殻、チャー・・・」というのは、その頃閏土が教えてくれたものたち。「わたし」は閏土の心を「神秘の宝庫」と呼んで、憧れます。

けれど、「子だくさん、凶作、重い税金、兵隊、匪賊、役人、地主、みんな寄ってたかって彼をいじめて、デクノボーみたいな人間にしてしまった」のです。その頃の2人の牧歌的な関係まで奪ってしまいました。

呼び名とは、その人との関係性を如実に表します。「迅ちゃん」「閏ちゃん」と呼び合っていた2人ですが、もはやその時の対等?なつながりはありません。

この呼び名が、「わたし」の懐かしい思い出をすべて壊してしまいました。

「わたし」が親しみをこめて呼びかけたのにもかかわらず、彼は「だんな様」とよそよそしく呼ぶしかないのです。子どものときには意識しなかった格差が、大人になることによって否応なく身にのしかかります。

読んだ当時の15歳という年齢はあまりに微妙です。子どもとして自由に振る舞ってきたけれど、そろそろ目上目下とか、社会的な対人関係も理解しつつある。

閏土の「だんな様」は、その頃の複雑な心情を見事に表していたんですね。

「喜びと寂しさの色が顔に現れた。」「唇が動いたが、声にはならなかった。」「最後に、うやうやしい態度に変わって、はっきりこう言った。」

再会の喜びを素直に出せないまま、主人である「わたし」に媚びる道を選んだ・・・このシーンが今でも強く印象に残っているのは、「わたし」と同じように、読んでいる自分も切なくなったからでしょう。

このあと閏土は、引っ越しの際にでる荷物をもらっていくのですが、再読して気づいたことがありました。

母は、持っていかぬ品物はみんな(閏土に)くれてやろう、好きなように選ばせよう、とわたしに言った。

 午後、彼は品物を選び出した。長テーブル二個、いす四脚、香炉と燭台一組み、大秤一本。そのほかわら灰もみんな欲しいと言った。(わたしたちのところでは、炊事の時わらを燃す。その灰は砂地の肥料になる。)

経済的な窮状にある閏土が、普通に家財道具をもらっていった、というふうに覚えてました。

ところが、読み落としていたのでしょう、こんな場面がありました。

母はこう語った。例の豆腐屋小町の楊おばさんは、わたしの家で片づけが始まってから、毎日必ずやってきたが、おととい、灰の山からわんや皿を十個あまり掘り出した。あれこれ議論の末、それは閏土が埋めておいたにちがいない、灰を運ぶ時、一緒に持ち帰れるから、という結論になった。

だとすると閏土は、「わたし」をだまして、灰の中にわんや皿を隠しておき、それをこっそり持ち帰ろうとしたことになります。

なぜでしょう。「わたし」の母は、閏土の欲しいものはすべてあげよう、とまで言っているのに、なぜ彼は椀や皿を隠して持って行こうとしたのでしょう。

(実はここは、楊おばさんの自作自演説もあって、自分で灰の中に隠して、それを見つけた手柄としたかったという読みもあるようですが、ここでは採りません。)

閏土が断って持って行ったものは、テーブルや椅子、大瓶と言った大きな(高価?)なものと、香炉や燭台(これは後で「偶像崇拝だな」と「わたし」が言っている)です。

椀や皿という日常遣いのものを欲しい、と言えなかったのは、彼なりのプライドでもあったのでしょうか。

あるいは、かつて「親友」であった、その美しい時代の思い出に閏土もどこかで浸っていて、つまらないものを欲しいと告げることの寂しさに、彼も耐えられなかったのではないでしょうか。

「わたし」はこの事件について多くを語りません。いずれにせよ、閏土との関係はすっかり変わってしまいました。

しかし小説の最後で、甥っ子の宏児が、閏土の五男である水生を慕う場面があります。そこで「わたし」はこう思うのです。

せめて彼らだけは、わたしと違って、互いに隔絶することのないように……とはいっても、彼らが一つ心でいたいがために、わたしのように、無駄の積み重ねで魂をすり減らす生活をともにすることは願わない。また閏土のように、打ちひしがれて心がまひする生活をともにすることも願わない。また他の人のように、やけを起こしてのほうずに走る生活をともにすることも願わない。希望をいえば、彼らは新しい生活をもたなくてはならない。わたしたちの経験しなかった新しい生活を。

 そして「希望」とは「道」のようなものだと。

去年、高3の生徒たちにこんなメッセージを送りました。


エンゼルスの大谷翔平選手が、投手と打者の二刀流で行くと言ったとき、多くの識者が「無理だ」「できるわけない」と語っていました。今は、どうでしょう。  

だれもやっていないことをはじめるには強い勇気が必要です。周囲の人々はできるだけ安全・安心な道を歩かせようとするものだし、本人も「そこまでしなくても・・・」と思うのが普通でしょう。 けれど、これはみなさんが希望する進路の問題にもあてはまることかもしれません。入試という狭い範囲でなく、今後の自分の生き方を考えるという意味で。  

中学の時、魯迅の「故郷」を学んだ人はあのラストの言葉を覚えていませんか。

希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えぬ。それは地上の道のようなものである。地上にはもともと道はない。歩く人が多くなれば、それが道となるのだ。」

最初に歩く人がいるからこそ、すべては始まるということですよね。


中学生の時の自分が、希望について今のように考えていたわけではありません。けれど、この「希望が道になる」という言葉が何十年も心に残っていたことが、今につながっている、そんな気がします。

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