「破局」(遠野遙)を読む

日々のこと

なぜ「膝」なのか?

その文体というのか、構成というのか、よく分からない違和感に包まれながら一気に読んでしまった。

その違和感の正体は、読み終えた今でも不明である。ただ、それがこの小説の面白さであるという感じだけはある。

「目と目が合って、彼が恐怖を感じているのがわかった。私がこの位置までカバーに来るとは思わなかったのだろう。筋肉の付き方は悪くない。背も私よりいくらか高い。どうしてもっと自信を持って戦わないのか。私に勝ちたいと思わないのか。憤りを覚え、確実に潰すと決めた。」

「破局」(遠野遙) 河出書房新社

そもそも、冒頭から何が起こっているのか?「彼」とは誰なのか、「私」はどのような人物で、なぜ憤りを感じるのか、確実に潰すとは?

脈絡なく続く描写だけに、とにかく次を読まないと分からない。次第に高校ラグビーの練習中で、「彼」は指導中の生徒、「私」はそのコーチであることが見えてくるが、そうすると「練習が終わり、佐々木の車に乗った。」と、また佐々木という正体不明の人物が唐突に登場する。

このように、この小説の登場人物は、固有名詞であれ代名詞であれ、そこに説明が全くつけられない。そして極めつけは「膝」である。

「携帯電話を確認すると、深夜に膝からメッセージが届いていた。」

「膝?」体の部位でなくて人の名前?

性別とか「私」との関係性とか、それが読めないのならまだいい。それ以前に人間かどうかさえ伝えられないまま物語は進む。

しかもこの「膝」という人物は私以上に奇妙な印象を与える。

「自分がずっとツバメだと思っていた鳥が、実はスズメだったことに気づいた」とか、「スズメよりカラスのほうがパンチがある」とか、意味のない話をしたがる人物で、どうも「私」の友人ではあるらしい。

自分が出演するライブに来て欲しいというが、それが何のライブなのかは分からない。R-1という言葉が出て、もしかするとお笑いの?と想像するのがやっとだ。

このように、この小説はディテールの説明を一切せず、「私」だけの視点からすべてが語られる。

何も知らない読者への配慮など全くなく、逆に「私」の行動、感情、それらがくどくどと語られ、それが一般的な一人称小説を読むときのような、「私」に自分を投影して読むことを妨げる。

主人公への共感、を拒否するかのような描写でありながら、なぜか、いやそれだけに気になって仕方がないのだ。

何のための「自慰」の描写か?

コーチをしている高校生への指導ぶりや、ラグビー部の顧問である佐々木の家で「強制わいせつの疑いで逮捕された巡査部長」のニュースを聞いたとき「報いを受けさせないといけない」などの言葉から他者に厳しい人物であることはうかがえる。

ところが、家で聞いた「元交際相手の下着を盗んで逮捕された巡査部長」のニュースでは、「他人のために祈りたくなった」と言う。(「巡査部長」はこのあとも女性用トイレに小型カメラを仕掛けて逮捕される肩書きとして登場する。)

そして祈ったあとで私は神を信じていない、と白状する。

めまぐるしく変わる「私」の心情に寄り添う暇もなく、次は必要以上に細かい「自慰」の描写である。

「勉強(=のちに公務員試験のためのものだと分かる)をしないといけないから、いつも性器が完全に乾く前に下着を穿く。すると下着が汚れる。だからシャワーを浴びる前に自慰をしたほうがいい。しかしそうするとシャワーから出る頃にはまた自慰をしたくなっていて、実際にしてしまう。だから最近はもっぱらこの順序だった。」

「破局」(遠野遙) 河出書房新社

「この順序」がなんの順序なのか一瞬戸惑うだけでなく、「すると」「だから」「しかし」「だから」と小学生の作文のような接続詞の連続である。それも気になるが、そもそもこの描写に何の意味があるのか?

そのように「意味がない」「細かすぎる」「理解できない」が立て続けに描かれて行く。

最後まで読み終えると、どことなくそれらが繋がっているような印象もあるが、全体像はやはり見えないままである。

ただ、「私」にしても「膝」にしても、彼女だった「麻衣子」も、新しい恋人の「灯」も、どこか精神と肉体が分裂している印象は拭えない。

もしかするとこの小説は、「統合されない人間」にクローズアップしているのかもしれず、それこそが私たち、自分を「普通」と信じている私たちのドグマに楔を打ちこんでいるのかもしれない。

(次項に続く)

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