夏目漱石「こころ」〜「K」が開けた襖の謎①

ココロ

https://penta-3.com/2020/02/26/soseki-kokoro5/ の続きです。

Kはなぜ自分の部屋で死を選んだのでしょうか。

そしてなぜ「私」の部屋との間の襖を開けていたのでしょうか。

この問いについては、「『私』に見つけて欲しかったから」という答えをよく見掛けます。

お嬢さんを奪った「私」への当てつけ、ということではなく、たった一人、信頼する人物だった「私」のそばで最後は生を終わらせたかった、という。

翌日が日曜で「私」が家にいるから、土曜の晩を選んで死んだのではないかという説もあります。

必ず「私」が第一発見者になって、自分が死んだ後のことも頼める、そういう配慮?だったのではないかと。

でもそうすると、Kが「私」宛の遺書に書いた「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう」という言葉の意味は何なのでしょう。

死の覚悟を決めていたKが、わざわざそういうことを考えて土曜日に自分の部屋で死を決行した?

注意したいのは、遺書の「もっと早く云々」というのは、最後に墨の余りで書き添えたらしい、ということです。

遺書に書くつもりではなかった。あくまで冷静に、自分は薄志弱行でとうてい行く先の望みがないから自殺する、そう書いてあったことに嘘はないでしょう。

「なぜ今まで生きていたのだろう」という痛切な言葉は、「私」に宛てたというより、K自身の自問、最後に書かずにいられなかったKの心の叫びだったに違いありません。

おそらく、Kは最後のこの言葉を書くまで、死のうとは決めていなかった。

彼が死んだのは、「私」の部屋との襖を開けたから。

襖の先にいる「わたし」が熟睡しているのが分かったからです。

その時、行く先の望みがないという自分への絶望だけでなく、孤独ということへの絶望が沸き上がります。

「私」があとで振り返っているように、Kは「私のようにたった一人で淋しくって仕方がなくなった結果、急に処決した」のです。

重要なのは、「急に」です。死を覚悟していても、それを実行することとの間にはものすごい距離があります。

死のう死のうと考え続けながら、生き長らえてしまった、そういう後悔もKにはあったのでしょう。

私は今でもその光景を思い出すと慄然とします。いつも東枕で寝る私が、その晩に限って、偶然西枕に床を敷いたのも、何かの因縁かも知れません。私は枕元から吹き込む寒い風でふと眼を覚ましたのです。見ると、いつも立て切ってあるKと私の室との仕切の襖が、この間の晩と同じくらい開いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。私は暗示を受けた人のように、床の上に肱を突いて起き上がりながら、屹とKの室を覗きました。洋燈が暗く点っているのです。それで床も敷いてあるのです。しかし掛蒲団は跳返されたように裾の方に重なり合っているのです。そうしてK自身は向うむきに突ッ伏しているのです。

夏目漱石「こころ」(青空文庫より)

「この間の晩」とは、「私」がKに「精神的に向上心のないものはばかだ」と言い放ち、お嬢さんへの恋を諦めさせようとしたあの日の晩です。

その作戦がうまくいったと思っていた「私」ですが、

私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。見ると、間の襖が二尺ばかり開いて、そこにKの黒い影が立っています。そうして彼の室には宵の通りまだ燈火が点いているのです。急に世界の変った私は、少しの間口を利く事もできずに、ぼうっとして、その光景を眺めていました。

その時Kはもう寝たのかと聞きました。Kはいつでも遅くまで起きている男でした。私は黒い影法師のようなKに向って、何か用かと聞き返しました。Kは大した用でもない、ただもう寝たか、まだ起きているかと思って、便所へ行ったついでに聞いてみただけだと答えました。Kは洋燈の灯を背中に受けているので、彼の顔色や眼つきは、全く私には分りませんでした。けれども彼の声は不断よりもかえって落ち付いていたくらいでした。

Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。

夏目漱石「こころ」(青空文庫より)

この時もKは自分の孤独に耐えられず、思わず襖を開けて「私」に声をかけたのでしょう。

この時「私」が寝ていたらその時点で死を決行したという説もありますが、それでは遺書の「もっと早く」の意味が変わってしまいます。

Kが死んだのは、薄志弱行や失恋だけではなく、たった一人の理解者、「私」にさえ自分の心が届かないという絶望に陥ったときです。

その証拠となるのが、「襖」です。

なぜ襖は開けたままだったのか、そして「二尺ばかり」ということにどういう意味があるのか…

(次回に続きます)

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