光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるへ。
かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。
萩原朔太郎の詩「竹」。教科書にも載っているので、聞いたことのある方も多いと思います。
しかし、詩の授業というのはなかなか難しいものです。3年間の授業の中で取り扱うことも少なく、40年近い経験を振り返っても、この「竹」を取り上げた記憶がほとんどありません。
それなのに妙に記憶に残る詩であることもまた間違いなく、それはいったい何なのでしょうか?
この詩についての解釈はさまざまありますが、朔太郎という詩人が詩を書いたときの時代状況や心理状態などを判断の材料にしたりせず、書かれた言葉だけを先入感なしでそのまま読んでみようと思います。
目次
前半=見えないところで必死に伸びようと
「生え、」「ほそらみ、」「ふるへ。」と句末の動詞ははすべて連用形。「りんりんと、」も形容動詞ですから同様です。
この畳み掛ける表現が、竹の成長の強さや躍動感を見事にイメージさせます。
第一連は、生まれたての竹(青竹)が、地面の下で必死にその根を伸ばしているところ。根は先端に行くほど「ほそらみ」(細くなり)、視点はさらに根の先に生えている微かな繊毛に向かいます。
クローズアップされた根先の繊毛は、もちろん肉眼では見えませんが、かすかに震えている。生の証として。
最後「ふるへ、」でなく「ふるへ。」と句点で締めることで、その根の動き、繊毛の動きの力強さが強調されるとともに、伸び続けるいのちがやはり連用中止の形で表されます。
後半=空に向かってまっすぐ伸びようと
「かたき地面に」「するどく」「まっしぐらに」「りんりんと(勇ましく)」と背を伸ばしていく竹。
冬の寒さの中、地面の下の見えない力が支えになって、竹はまっすぐ青空に向かって伸び続けます。
そして「竹、竹、竹、」と林立していく姿、止まらず成長していく姿が「生え。」と表され、終わらない生の力強さがふたたび示されます。
「竹」が象徴するもの
さて、この詩をどう読むかです。
作者の心情や意図があるとしても、それに拘らず、それを超えて読み手がどう捉えるか。
“竹のような”たくましい成長の姿に自分や子どもをなぞらえるのか、前半の、見えないところでの努力に焦点化するのか。
いずれにしても強い生命力を持った竹のイメージが浮かんできます。が…
もうひとつの「竹」を見てみましょう。(こちらの方が教科書掲載率は高いかも)
ますぐなるもの地面に生え、
するどき青きもの地面に生え、
凍れる冬をつらぬきて、
そのみどり葉光る朝の空路に、
なみだたれ、
なみだをたれ、
いまはや懺悔をはれる肩の上より、
けぶれる竹の根はひろごり、
するどき青きもの地面に生え。
こちらでは「なみだ」が強調され、「懺悔」という言葉も出てきます。
そうなると明るい成長のイメージだけでもない感じがしますが、では竹の「なみだ」や「懺悔」とは何なのでしょう。
最初の「竹」の詩にも、実は続きがありました。
○
みよすべての罪はしるされたり、
されどすべては我にあらざりき、
まことにわれに現はれしは、
かげなき青き炎の幻影のみ、
雪の上に消えさる哀傷の幽霊のみ、
ああかかる日のせつなる懺悔をも何かせむ、
すべては青きほのほの幻影のみ。
ここにはもう竹は登場しません。主体はいつのまにか「我」になり、犯した罪(何かは分かりません)の重さに苦しんでいるようです。
いくら懺悔しても、現れるのは「青き炎の幻影」のみ。雪の上に消えて行く哀れで傷ついた自己の幽霊のみです。
「青い空にまっすぐするどく伸びる青い竹」と、「青い炎の幻影」とのコントラスト。何にも捉われることなく進んでいこうとする自己像と、どうあがいても赦しを得られないであろうという苦しみがそこに表れています。
矛盾でも何でもなく、人はそうやって生きています。どんなに正直に生きようとしても、内面のわだかまりが消えないことがある。
あるいは過去の罪への懺悔が終わらなければ前に進めない、ということでもない。
「竹」の繊毛がかすかに震えていたのは、そうした人間の「もがき」にも思えます。
漢字では「踠き」。まさに手と足を必死に動かして生きるその姿なのでしょう。
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