「パートナー」と呼ぶことの意味

ココロ

あなたの結婚相手の呼び方は?

年末に先日何気なくTVの「モニタリング」を見てました。

この番組、ちょとやり過ぎでは・・・と思うところもありますが、最近ちょと趣向の違う企画もありますね。

この日は「☆2019年総決算!もう一度観たい衝撃ベスト3 」と題しての放送でしたが、その第1位が「木村拓哉人間性モニタリング(ターゲット:木村拓哉、仕掛人:勝地涼)」でした。

仕掛け人の勝地涼が、最近役者をやる自信がなくなってきたのでやめたいんです、とキムタクに相談します。

色紙にサインを書きながら何となくその話を聞いていたキムタクですが、真剣な内容だと分かると、「それって、パートナーに話したの? まずそこからでしょ」と。

そのあとの話も深い内容でしたが、なによりその「パートナー」という言葉が残りました。

「奥さん」でも「○○さん」という名前でもなく、「パートナー」。その呼び名に彼の考え方や思いが込められている気がしたんです。

結婚したあとの女性を外でどう呼んでいるかといえば、多いのは「妻」「嫁」「家内」「女房」「奥さん」などでしょうか。(ちなみに私は「奥さん」、子どもが生まれたあとは「ママ」「お母さん」でした。)男性は「夫」「主人」「旦那」「亭主」など?

でもどれもなんか家長制度の名残というか、上下関係が透けて見える言葉ですよね。「夫婦」だって「婦夫」でもいいはずだし。

学校でも最近やっと混合名簿(男子女子を混ぜて出席番号を振る)にしようという動きが出てきましたが、そういうことにはほとんど無自覚です。

日本の「ジェンダーギャップ指数」が相当低いということとも絡めて考えると、このキムタクの言い方はすごく大事だな、と思いました。

結婚相手をだれかに紹介するときには「パートナー」を使う。ちょっと違和感はあるかもしれませんが、それに代わるニュアンスの日本語がない現状ではやむを得ないのでしょうか。

無自覚なだけに変わらない

そういえば、こんなこともありました。(ハフポスト日本版)↓

https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5cb01f5ee4b0ffefe3ae261c

昨年の東大入学式で上野千鶴子氏が述べた祝辞には、「社会には、あからさまな性差別が横行している。東大もその一つ」というかなり衝撃的な言葉がありました。

その言葉だけがクローズアップされて、「またいつものフェミニズム?」とくらいにしか思わなかった人も多いのではないかと危惧するのですが、祝辞の全文を読めばその真意が分かります。

問題の解決を阻むものは、私たち自身の無自覚さにある、そのことを伝えたかったのではないでしょうか。

世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと…たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。

そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。

【平成31年度東京大学学部入学式 上野千鶴子氏祝辞より】

上野氏はこうも言っています。

未知を求めて、よその世界にも飛び出してください。

異文化を怖れる必要はありません。人間が生きているところでなら、どこでも生きていけます。あなた方には、東大ブランドがまったく通用しない世界でも、どんな環境でも、どんな世界でも、たとえ難民になってでも、生きていける知を身につけてもらいたい。

大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です。

【平成31年度東京大学学部入学式 上野千鶴子氏祝辞より】

大事なのはこのメタ知識、メタ認知ですね。

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