(https://penta-3.com/2020/02/26/soseki-kokoro5/ の続きです)
前回まで、「こころ」における「K」の死について考えてきました。
けれど、この小説にはそれ以外にもさまざまな問題や謎があります。
その最大のものはその「K」を死に追いやったと考えている「私=先生」もまた最後に死を選ぶ、その理由です。
「明治の精神に殉死」ということは書いてありますが、もちろんそれだけではないでしょう。
それにしても、残された「お嬢さん=妻」のこと、先生の手紙を読んだ学生の「私」のこと。先生の死後に彼らはどうなるのか、決して明るい未来を感じることはできません。
どう読んでも暗いこの小説を、希望としてとらえる読み方はないのでしょうか。
あえて、思うことがふたつあります。ひとつは、「こころ」は「愛の物語」という読み方です。
先生は、最愛の妻に「K」の死について何も語らないまま姿を消します。それは、妻のこころを純白のままにしておきたい、という願いです。
五十六 私は妻を残して行きます。私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは仕合せです。私は妻に残酷な驚怖を与える事を好みません。私は妻に血の色を見せないで死ぬつもりです。妻の知らない間に、こっそりこの世からいなくなるようにします。私は死んだ後で、妻から頓死したと思われたいのです。気が狂ったと思われても満足なのです。
(中略) 私は私の過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己の過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。」
夏目漱石「こころ」(青空文庫より)
「先生=私」は若いときに両親を失い、信頼していた叔父にその財産を奪われ、人間不信になります。その「私」を精神的に救ってくれたのが、下宿先の奥さんであり、お嬢さんでした。
そのお嬢さんと結婚し、「K」のことが絶えず暗い影を落としていたなかでも、外見には幸福な夫婦として暮らしてきました。
愛しているからこそ、本当のことは言えない。
愛しているからこそ、黙って姿を消す。
愛しているからこそ、自分の記憶を純白のままにしておきたい。
これを「先生」の身勝手な、独りよがりの考えだと言うことは簡単です。事実、「妻」は「先生」の暗い影をずっと感じながら一緒にいたのですから。
そして、何も聞かされずに夫が失踪してしまったなら、その後の人生はより辛いものになる、そう感じられてしまいます。
けれど、「愛」がいつも絵に描いたような幸福をもたらすわけではないことも私たちは知っています。
先生の「愛」は、こうした形でしか表現できなかった。この小説は、「先生」の手紙を若い「私」が読み終わるところで終わるのですが、暗い過去をすべて打ち明けて他の人の参考にしてほしい、と言いながら、たったひとりの例外がいると。
どんなに独善的だと思われても、その形でしか愛を伝えられないのだと。
人に迷惑をかけるとか、相手の気持ちを考えない行為、というものを私たちは嫌いますが、果たしてそれはすべてに優先するものなのか、むしろ「愛」とはそういうものではないのか。
そんな問いを投げかけて「こころ」は幕を閉じます。
「先生」から若者へのメッセージ
「こころ」を先生から「妻(お嬢さん)」への愛の物語として読んでみました。
もうひとつ、この作品には「先生」、あるいは作者漱石から若者へのメッセージが込められています。
物語は、若い大学生の「私」が鎌倉の海で会った「先生」に惹かれ、その秘密を知りたがる、という形で進行します。
この若者は純粋に、「先生」から人生の教訓を得たいと考えます。次は「上 先生と私」からの引用です。
二十三 私は東京の事を考えた。そうして漲る心臓の血潮の奥に、活動活動と打ちつづける鼓動を聞いた。不思議にもその鼓動の音が、ある微妙な意識状態から、先生の力で強められているように感じた。
(中略)かつて遊興のために往来をした覚えのない先生は、歓楽の交際から出る親しみ以上に、いつか私の頭に影響を与えていた。ただ頭というのはあまりに冷ややか過ぎるから、私は胸といい直したい。肉のなかに先生の力が喰い込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた。私は父が私の本当の父であり、先生はまたいうまでもなく、あかの他人であるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べてみて、始めて大きな真理でも発見したかのごとくに驚いた。
夏目漱石「こころ」(青空文庫より)
「先生」の謎めいた言動は常に「私」の好奇心を刺激し、それは次第に「肉のなかに先生の力が」「血のなかに先生の命が」というほどまでに大きなものになっていきます。
「先生」は「私」にとって人生の師そのものであり、実の父親以上の存在になっていました。
なかなか語らない「先生」の過去をどうしても知りたい、と言う「私」に「先生」は言います。
三十一
「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏め上げた考えをむやみに人に隠しやしません。隠す必要がないんだから。けれども私の過去を悉くあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それはまた別問題になります」
「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」
先生はあきれたといった風に、私の顔を見た。巻烟草を持っていたその手が少し顫えた。
「あなたは大胆だ」
「ただ真面目なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
「私の過去を訐いてもですか」
訐くという言葉が、突然恐ろしい響きをもって、私の耳を打った。私は今私の前に坐っているのが、一人の罪人であって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔は蒼かった。
「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果で、人を疑ぐりつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いから、他を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」
「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」
私の声は顫えた。
夏目漱石「こころ」(青空文庫より)
過去を「訐(あば)く」という言い方は強烈です。「私」にしてみればそれほどのものか、という思いがあったでしょう。
罪人のように感じられるほど、先生の過去は重い。それでも、だからこそ真面目な私は、それを知りたがります。声を顫(ふる)わせながら。
そんな「私」に、ついに「先生」は自分の過去を「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。」と告げるのです。
その機会は、「私」が病気を患った父親を見舞うため郷里に帰ったことにより、長い「手紙」という形で伝えることになります。それが「下 先生と遺書」の全文です。
「先生」から受け取った手紙に、「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」という文字を見つけてしまった「私」は、危篤の父を残して東京行きの列車に飛び乗ってしまいます。
実の親よりも先生が心配だった、と言ったところで周囲の人に理解されるはずはありません。しかしそうせずにはいられなかった「私」は、「先生」のメッセージを受け取ることのできるたったひとりの使者だったのです。
そして「先生」は自分の過去、「K」のことを伝え、最後にこう書きます。
五十六 私は酔興に書くのではありません。私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを偽りなく書き残して置く私の努力は、人間を知る上において、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。(中略)私の努力も単にあなたに対する約束を果たすためばかりではありません。半ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。
夏目漱石「こころ」(青空文庫より)
「先生」は、たったひとり、「私」という聞き手を得たことで、思い残すことなくこの世を去る決意ができました。
そこで伝えたかったメッセージとは何でしょう?
「先生」は、自分の過去が決して個人のものでなく、人間を知るうえで、誰にとっても無駄にはならない、参考になるはず、と書いています。
そのように言う理由として、まず「先生」の生きた時代背景も考えてみる必要があるでしょう。「先生」は明治までの封建的制度と、「個人」・「私」・「自我」という観念が生まれた新しい時代の狭間に生きてきました。
結婚を申し込むのが当のお嬢さんではなく、母親の奥さんであったことが象徴するように、本人より「家」の意思が重要だった時代です。
そんななか、一人っ子だった「先生」の両親はすでに亡く、自由な恋愛が可能な状況の中でお嬢さんと出会います。
人間不信であった「先生」は、なかなか本気でその恋愛に踏み切れません。が、そこに「K」という存在が入ることで、事態は変わります。
親友の窮境を救う、という社会的にも「先生」個人的にも正しい道を進んできたはずなのに、お嬢さんを「K」に取られたくない、という「私」の感情がそれを邪魔します。
そして「K」のこころからお嬢さんを奪うチャンスが来た、と思うやいなや、「K」を精神的に追い詰めてしまいます。
「公」か「私」かを選ぶ、という単純な構図ではありません。「先生」も絶えず追求してきたはずの善の道を、その瞬間、嫉妬と独占欲に目がくらんで見失ってしまったのです。
それが「恋は罪悪」と言う所以です。
(それにしても親友と一人の女性を争うという状況じたいが、前近代の先生世代には不慣れだったのかもしれません。)
「私」「個人」の意識ばかりの現代では、「先生」の取った行動はやむを得ない、誰でも自分が大切、と言うのかもしれません。
しかし、その頃に戻って考えるならば、「先生」が自分の犯した罪を生涯許せないでいた、ということも理解できるはずです。
そしてその罪も含めた自分の人生を、余さず若い「私」、新しい時代を生きる若者に伝えたい。
古い世代の自分「個人」の経験は、特殊であるかもしれないが、「人間全体」としては普遍的なものであると。
生きるということ、人間の「こころ」というもの、その難しさ、不可思議さはいつの時代も変わらないはずだと。
その「こころ」を抱えて、生きることの困難に向かわなければならないのだというメッセージ。
決して明るくはないけれど、「先生」の手紙を、そんな希望をこめたものだと捉えてみたいと思うのです。
大学生の「私」が危篤の父を置いて東京へ向かう場面が、先生のメッセージを印象的にしています。まさに前近代の家を捨て、新しい時代の生き方を求める象徴的なシーンです。
古い時代に殉死する人(=「先生」)と、新しい時代に生まれ生きなくてはいけない人(=若い「私」)とが、田舎から東京へ向かう列車の中で同居し、語り合います。
実際ここにあなたという一人の男が存在していないならば、私の過去はついに私の過去で、間接にも他人の知識にはならないで済んだでしょう。私は何千万といる日本人のうちで、ただあなただけに、私の過去を物語りたいのです。あなたは真面目だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。
私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗いものを凝っと見詰めて、その中からあなたの参考になるものをお攫みなさい。(中略)私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴びせかけようとしているのです。私の鼓動が停とまった時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。
夏目漱石「こころ」(青空文庫より)
間違いなく、「先生」は熱いメッセージを送っています。新しい時代の若者に。
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