「広く弱くつながって生きる」(佐々木俊尚)を読む

ココロ

目次

社会について

シェアリングネイバーズのMeet Up!に参加した時、ゲストで来られていた佐々木俊尚さんのお話にはとてもうなずくところが多かったので、さっそく著書を読んでみました。(ごめんなさい、メルカリでの購入です。シェアなので許してください(^_^;))

うかがったお話と重なる部分はありますが、やはり本を読むとより深まりますね。

今の生きづらさの根本は人間関係だとして、それをちょっと考え直して楽に過ごしていくための提案が書かれています。

その中でも特に印象的なところをいくつか挙げてみます。本文そのままでなく、自分なりに要約させていただきました。(とりあえず第1章の分)

かつて日本は「世間」が社会を覆っていたが、昨今は観念としての世間は消失しつつある。

それゆえ誰もが不安になって「ネット世間」のようなものを仮想的に作り上げている。

これはいずれ崩壊して、新しい共同体が生まれるだろう。

そして、

社会には公、共、私という3つの空間がある。弱いつながりを築くとは、自分で共の空間を作ること。共を中心にして、公と私が変わっていくというイメージが不可欠だ。

確かに、世間にしても、会社のような組織にしても、日本は同調圧力によって作られた強いつながりを是としてきました。それが息苦しいものだったとしても、平等性の担保という性質もあったでしょうし、それに乗っていれば安心して生きられるという側面もあったのでしょう。

でも状況は変わりました。社会の大きな変化の中で、平等の捉え方も変わり、流れに乗っていれば一生安泰ということもありません。人間関係も旧来の価値観は通用しなくなりました。

そしたら、人は既成概念を捨てて、変わるしかないんですよね。

でも私たち以上の世代はそんなに簡単に変われない。旧態のシステムにしがみつくか、こうなった社会を嘆くだけです。

ネットに憎悪や誹謗中傷を書き込む人たちにも、安心して寄りかかる場所のない不安や寂しさがある、とすれば根は同じかもしれません。

佐々木氏の言う、新しい共同体とはなんでしょう。

国や組織という巨大な「公」のシステムに敵対し対抗するものでもなく、ネット世界に蔓延する限りない「私」でもない「共」。

シェアリングに代表されるような共の空間が今確かにたくさん生まれています。そこにコミットすることで「公」も「私」も変えられる、そう言う佐々木さんの言葉に勇気づけられます。

では具体的にはどうしたら?

生き方について

佐々木氏は、遊ぶのもインプットという仕事だと言います。

外に出れば、いろんな人と知り合える。そうして芋づる式に人間関係を築けば、弱いつながりが広がっていくと。

そのためにSNSを積極的に活用していて、Facebookで知り合った「いい人」には実際に会いに行くそうです。

インプットのためにもアウトプットする必要があるということでしょうね。

外に出て行くには、自分のプライドを捨てて、誰とでもつきあえることが大切。老若男女、看板や所属を問わない関係を築く。逆にヒエラルキーや嫌な人からは遠ざかる。

いかがですか?こうして見ていくと、決して簡単なことではないですね。確かに「スキル」といえるかもしれません。

なるほどなと思ったのが、あまり好ましくない人と判断する条件です。

  • ①自慢ばかりしている人
  • ②誰かと知り合いなのを自慢する人
  • ③自分にばかりベクトルが向いている人
  • ④人の悪口や何に対しても文句ばかり言う人
  • ⑤お説教の多い人
  • ⑥物事を損得で考える人(得になりそうなので近づいてくる人)
  • ⑦業界内の話しかしない人

うーん、いますね(-_-;)

⑥は別かもしれませんが、共通するのは、「承認欲求」の強さでしょうか。自分の存在価値を認めてもらいたい、人の批判をすることで自分の優位性を理解してほしいという。

同調圧力の強い社会で育ってくると、そういう「差異」にこだわるようになるのでしょうね。ネット上で批判や悪口ばかりを書き込む人たちも多分にそうなのだと思います。

いや、そういう自分自身がどうなのか、気をつけないといけませんが(^_^;)

笑顔・好奇心・謙虚さ

前回触れたように、佐々木氏はよどみなく快活に話せるような、いわゆる「コミュ力」がつながりに必要なのではないと言います。

フラットな関係の中で、大切なのは「笑顔、好奇心、謙虚さ」だと。

いろんな人と自然につきあって、いろんなことを経験して吸収して、それをまたアウトプットして楽しめる人。

スキルというよりは、その人の生き方の問題になってきますね(^_^)

機動的な働き方が一般化しつつある

と、佐々木氏は書いています。

何が本職か分からない、「何かの収入がとだえても、他の仕事があるから何とかなる」ということですね。

それは最初からいろんなスキルを持っているからできるのではなく、広い人間関係から生まれるもの。頼まれたことをやっているうちにその仕事ができるようになり、自分の向き不向きも分かるようになるのだと。

それはシェアリングネイバーズのMeet Upに行ったときも感じました。集まっている多くの人が、副業も含めて自分のやりたいことを仕事にしているな、と。

そうするとその人の本業、所属や肩書きは気にならなくなりますよね。なによりもその話をしてくれる時はすごく楽しそうなんです。

学生も、主婦も、引きこもりだった人も、みんなそれぞれの働き方を見つけて幸せになれる。会社や組織にしがみつかない生き方が可能な時代になっているんですね。

就いた仕事を神聖視してはいけない

と、佐々木氏は言います。

38年間も同じ仕事をしていた身には耳が痛い言葉ですが、来年から収入が大幅に減り、年金も当てにできない訳ですから、もう考えなければいけませんね。

実際、私たちより下でも終身雇用が当たり前と思っていた世代にとっては、いまの社会情勢は想定外だったはずです。このまま同じように働いていて老後は大丈夫なのか、という不安はありますよね。

でも、なかなか意識改革をするのは難しい。

そのために、40代になったら終活を始めてみるといい、とも書かれていますが、私はもう60代に突入寸前・・・、いや、それでも「変わらなきゃ」です。

終活ならぬ「老活」ということばもありました。60歳はまだ「老」ではないと思いますが、これからとりあえず20年生きると仮定して、その頃どうなっているかというより、どうなっていたいのか、は考えなければ。

そう時間はありませんが、今からそのためのチャレンジを続けていきたいと思います。

「人生は短絡的な物語ではない」

いろんなことを考えさせられた本ですが、なかでも印象に残った言葉があります。

私たちは何でも、起承転結のあるストーリーにしたがりすぎると。

これまでに成功した人が、みんな「かくかくしかじかで成功した」といった物語や人生訓を語りがちだが、それは後づけで、実際には偶然の作用が大きいのだと。

また、ここでは「ゲーム機を取り上げられた子が親を殺した事件」を例として挙げていますが、ある事件が起きたとき、それが常識では考えられないものであればあるほど、その原因を知りたくなりますよね。

最近で言えば川﨑の殺傷事件。犯人も亡くなっていて、その動機も背景もまったく分からない不気味さが、「引きこもり」へのクローズアップにつながりました。

実際には分からないけれども、「偶然」という存在を受け入れられない、分からないのに何でも「解釈」したがるのが人間なのかもしれません。(と、このブログでも取り上げた「偶然について」や「無常ということ」の内容が重なります。)

人生に山あり谷ありはその通りですが、成功や失敗すべてを因果関係で結びつけることはできませんよね。

もちろん人には物語=夢が必要です。それがないと生きていても空しさばかりが先に立ってしまう。そして努力や忍耐が成功への道だということも否定することはできません。

でも誰の人生にも、そんな「分かりやすく、大きな」物語ばかりがあるわけではない。むしろなぜそうなったか分からない、その人だけの道しか存在しないといった方がいいでしょう。

「偶然は、一人一人の人間にとって未知の未来、魅惑に満ちた驚異の未来を作り出す。」(「偶然について」(竹内啓))

「こうすれば絶対安心」というものがそもそもない以上、佐々木氏の言うように、大きなプラスや高みを目指さない生き方のほうが楽で楽しい。

それは、まさに偶然を楽しむ生き方ですよね^ ^

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